2022-01-25

あの『素材の会社!』AGC会長【島村琢哉】の『両利きの経営』!社会が求める素材を開発し、提供し続ける!

AGC取締役会長 島村琢哉



創業者・岩崎俊彌の思い

 岩崎俊彌自身は旧東京高等師範学校の付属小と付属中(後の東京教育大学=現筑波大学付属高校)を経て、英国ロンドン大学に留学、化学を専攻して帰国。
 日本の近代化が急がれていた明治後期、ビルやその他の建物など、建設インフラの整備も急務だった。そのビルや建物に不可欠のガラスをどう国産化するかは大きな課題であった。

 当時、ガラスはベルギーから全面輸入という状態。岩崎俊彌はガラスの国産化を果たそうと、1907年(明治40年)に旭硝子を設立した。国内の建設産業に国内産の素材を提供するという使命を背負っての同社設立であった。
 先駆的事業ということでいえば、当時、最先端技術の『電解法』による事業もそうであった。塩水の電気分解による苛性ソーダと塩素の製造。苛性ソーダは諸工業から生活関連の食品まで幅広い領域で使われ、その用途は広い。

 塩素もまた塩ビ樹脂の製造などに使われ、用途が広い。
 ガラスにしろ、『電解法』による化学品事業にしろ、先駆者的な存在だ。
 諸工業の原料となる苛性ソーダと塩素の製造には以前、水銀法やアスベストを使う隔膜法が使われていたが、同社は公害を出さない『イオン交換膜法』を確立。有害物質を使用しないだけではなく、消費エネルギーを抑える世界最高水準の環境にやさしい『電解法』を開発した。

日本では「不振」でも東南アジアでは「成長」

 しかし、事業を取り巻く環境も100年余の歴史の中で大きく変化してきた。
 例えば、塩化ビニール事業がそうだ。日本の産業界は1970年代の2度にわたる石油ショックによる電力高騰や円高などで国際競争力を失い、塩ビは構造不況業種になった。
 同社も塩素を生産しており、塩素の誘導品として塩ビ関連を手がけてきたが、苦境に立たされることとなった。

 塩ビは加工しやすい樹脂ということで、いろいろな産業領域で需要があるのだが、参入企業も多く、石油ショック後は供給過剰による過当競争となった。
 政府も構造不況対策の法律をつくったり、業界も共販会社をつくるなどの対策を立てたが、「国内の需要がもう頭打ちになった。一方、能力が多いので過剰生産になり値段は上がらない。原料価格は上がり、収益が悪くなる一方」という状態に突入。

 1995年頃から、景気がおかしくなり、98年から3年間くらいは基礎化学品、特に塩ビの不振はひどく、年間数十億円もの営業赤字を出すほどに状況は悪化した。
 この頃から、米マッキンゼーなどのコンサルティング会社からは、「化学品は切り離した方がいい」と売却を推奨する声が出始める。

 97年、98年といえば、山一證券や日本長期信用銀行などの経営が破綻し、金融危機に見舞われた。この頃から日本のデフレが始まり、厳しい世相が続いた。
 その頃、島村氏は40代前半で、基礎化学品の担当部長を務め、現場の苦悩を体験した身。
 当時の経営陣の間でも、売却案を口にする人が現われた。

 ただ、売却するにしても、利益の出ない事業だから、買い手もつかない。そういう状況で、
同社はどのような手を打っていったのか?
 国内は供給過剰で不振でも、目を外に転ずれば、東南アジアは成長している。
 同社は1960年代にタイに1980年代にはインドネシアに電解工場を開設していた。
 グローバルな視点で見れば、国内で化学の構造改革を実行し、東南アジアで成長戦略を取
るという方策が浮かぶ。

 現実に島村氏は2003年から2006年にかけての3年間、現地の『アサヒマス・ケミカル』社長として、インドネシアに赴任し、実効を上げた。
「同じ塩ビでも、日本だと儲からないんですが、インドネシアなど東南アジアでは利益が出
る。ところが、やはり一緒くたに皆見るわけですよ。塩ビは儲からないものだと。しかし目線を変えて見れば、まだまだ可能性があるものがあると。それは、機能で見るような製品もあるし、(塩ビのような)コモディティ、汎用品で歴史の長いものについては、1つは地域の軸で見るということによって展望が開ける」

 塩ビにしろ、苛性ソーダにしろ、コモディティ化した商品の典型。それを生かすには、商品を機能軸で見るのではなく、
「マーケットの地域軸」で捉え直そうというポートフォリオ戦略である。

国や地域ごとの事情そして特性を吟味して

 もっとも、その国にはその国独自の事情や経営風土、商習慣があり、単純に『日本市場は衰退、新興市場は成長一本やり』という図式では解けない。
 その国や地域ごとに試練や課題もある。1997年夏、タイの通貨・バーツが対ドルで下落した。これを震源にアジア各国に自国通貨下落が伝播。インドネシアの通貨・ルピアも暴落し、経済危機に見舞われた。反面、ルピア安で同国の輸出競争力は高まった。

 当時、中国は改革開放(1978)から20年が経ち、塩ビや苛性ソーダの需要も伸び盛り。そこで、同社も中国市場に進出。
 しかし、時代の変化は激しい。島村氏がインドネシアに駐在して2年目位から、中国の生
産スタイルも急速に変化。
「だんだん中国国内ではアセチレンカーバイド法という中国の生産スタイルが主流になってきて、いろいろな所から中国に売りに行くわけです、日本も。しかし、それをそのままマーケットでやっていたら、また同じことになる。だから、中国から引いて、インドとか西の地域に(販売先を)シフトさせた」

 グローバル展開と言っても、一様ではない。その国や地域ごとの対応があるということだ。
 話は変わるが、今、塩ビの世界最大のメーカーは信越化学工業の米国子会社・シンテック(年産324万㌧)。信越化学が世界で有数の化学会社に飛躍する原動力になったシンテックは、1974年米テキサス州で操業を開始。次いで、隣のルイジアナ州で次々と工場を拡大。米国南部は原料塩も確保でき、製品は北米、中南米はもとより、グローバル市場に販売する拠点として、立地上も有利というポジション。
 これも、石油ショックの時、コモディティ化した塩ビをどこで生産・販売すればいいかを検討し、成長先を米国と見定めた信越化学首脳陣に先見の明があったということであろう。

 成熟商品でも、成長の糧になるという1つの教訓である。
 信越化学の米国南部戦略といい、AGCの東南アジア戦略といい、地域軸を取ってのポートフォリオ戦略が功を奏した。


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本誌主幹 村田博文

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