2022-05-26

【母の教え】明治安田生命社長・永島英器氏が振り返る「母の無条件の愛情で…」

永島英器・明治安田生命保険社長

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「私が、感謝の気持ちや自己肯定感を強く持っているのは母のおかげ」─明治安田生命保険社長の永島英器さんはこう話す。永島さんの母・漾子(ようこ)さんは、東京・青梅の町工場の長女として生まれた。永島さんがやりたいことなど自主性に任せ、それを信じて愛情を注ぐという姿勢で子育て。永島さんは、自分の子供にも同じように接することを心がけてきた。その母の姿とは。

【写真で見る】永島さんの母・漾子(ようこ)さん。愛車の「MG」とともに

スポーツ万能で「ハイカラ」な母


 私の母・漾子は、1933年(昭和8年)に東京都青梅市で生まれました。旧姓は長谷見といい、実家は青梅で「長谷見鉄工所」を経営していました。私の母方の祖父である長谷見孝が一代で築いた会社です。

 長谷見鉄工所は、戦前は織機製造、戦中は戦闘機の部品製造、戦後はプリンス自動車(現・日産自動車)の部品製造を手掛けていました。私の記憶に残る昭和末期の長谷見鉄工所は、祖父とその弟、母の妹が中心のこじんまりした部品工場でしたが、羽振りの良い時期があったらしく、1000坪の自宅と工場が往時を偲ばせました。

 祖父は自動車とカメラが趣味で、イギリスのスポーツカー「MG」に乗っていました。母は、スポーツ万能のいわゆる「ハイカラ娘」だったらしく、母自身もMGを乗り回していました。後年になっても、「オートマ車はつまらない。マニュアルでなくちゃ」と言っていたことは強く印象に残っています。

 私の父・永島利器(りき)が母と知り合ったのは、父の大学時代の友人が母の弟だったことがきっかけで、自宅を訪ねた時に母を見初めたと聞いています。ですから母は「姉さん女房」なのですが、私がそれを知ったのは小学校高学年頃のことです。今では珍しくありませんが、当時はまだ、子供に積極的に言いたくなかったのかもしれません。

 父は大学卒業後に鹿島建設で働きました。東京・深川生まれの江戸っ子で、映画『3丁目の夕日』で堤真一さんが演じた「鈴木オート」の社長のような父親でした。父の親戚が法事で集まると、すぐに喧嘩が始まるのですが、10分もすれば涙ながらに抱き合って和解していました。長谷見家とは対照的で、私は子供心に「面倒くさい大人達だな」と思っていました(笑)。

 さしずめ、母は「鈴木オート」を優しく支える薬師丸ひろ子さんのような感じでしょうか。実際、私が子供の頃は友人達から「綺麗でやさしいお母さんだね」と羨ましがられました。料理や裁縫が得意な母でもありました。

 青梅の町工場とはいえ、母はいわば「社長令嬢」だったわけです。父としては「自分でいいのかな」と思うところもあったようですが、意を決して交際を申し込んだと話してくれたことがあります。

 ただ、結婚後、父は毎晩酒を飲んで帰ってくるし、後年には父方の祖母の介護もありということで、母は幸せだったのだろうか? と思うこともあったのですが、母からは一切愚痴を聞いたことはありません。いつも「自分は幸せだ」と言って、笑顔で過ごしていました。

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