「死を考えて死を受け入れる」─。臨済宗円覚寺派の本山である円覚寺の横田南嶺管長はこう語る。コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻などが続き、改めて生きることの意味は何かという問いかけが随所で行われている。「人と人とのつながりが、より一層大事になる」と訴える。横田管長の原点には、2歳の時に直面した祖父の死がある。以来、人が死ぬこと、生きることについて突き詰めて考えてきた。その横田管長に生きることの意味について尋ねた。
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「死」を意識した幼少期
─ 円覚寺は鎌倉時代後期に創建された臨済宗(禅宗)の寺院で、「鎌倉五山」の一つですが、横田管長は大学在学時に得度し、45歳の若さで円覚寺の管長に就いていますね。今はコロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻など、世界的に人々の心が荒れるような状況になっています。その中で人はどう生き抜くかという今日的命題があります。また、人と人のつながりをどう考えていけばいいのか。
横田 仏教の基本原則は二つあり、一つはこの世はうつろいゆく、もう一つはこの世にあるものは一人にあらずというものです。単独で存在しない。これは真理です。
─ 仏教には「諸行無常」と言いますか、形あるものはうつろいゆき、やがてなくなるという考え方もありますね。そもそも、横田管長が仏門を志したきっかけは何でしたか。
横田 私は和歌山県新宮市で生まれ育ちました。新宮市には「熊野三山」のうち熊野速玉大社がありますが、私の実家は、そのすぐ目の前にあり、18歳までそこで過ごしました。
─ 熊野信仰のある土地で、熊野三山は神社ですが、仏教的要素も強いですね。ご実家はどういったお仕事を?
横田 父は元々、鍛冶屋でしたが、それだけでは生きていけないだろうということで鉄工業に転換しました。
戦前まで熊野川の河原には「街」がありました。「川原家」という持ち運び可能な折りたたみ式の家屋、今で言えばプレハブを建てて、人々はそこで暮らし、食堂や床屋など街ができていたんです。
熊野は木材の街です。今は熊野速玉大社の本宮まで国道が通っていますが、昔は道がありませんでしたから、筏を使って川から運んでいました。鍛冶屋の一番の仕事は筏の鎹(かすがい)をつくることだったんです。それ以外には包丁や鍬をつくるなど、いわゆる「野鍛冶」(小規模ながら暮らしの中の道具を幅広く手掛ける鍛冶屋)でした。
─ 移動できる家ということで、非常に柔軟な生き方をされていたんですね。
横田 新宮の河原には最盛期で200軒ほどの家がありました。ただ、河原ですから年に何回かは水が出るわけです。その時には家を畳んで丘に上がっていたのです。父の時代には、そういう暮らしをしていましたが、「早くそういう暮らしから脱却したいと思って頑張った」と話をしていました。
─ 横田管長は何人兄弟ですか。
横田 男4人兄弟の2番目です。父は兄には「鉄工所をやりなさい」、私には「左官屋になりなさい」、3男には「大工になりなさい」と言っていましたが、誰も言うことを聞かず(笑)、4男が跡を継ぎました。
─ こうした生活の中で、どこで仏門との出会いがあったんですか。
横田 結構早かったんです。父が信心深かったというわけではありません。父は鉄工業に転換した後、ちょうど高度経済成長期に当たり、事業は軌道に乗りました。父の自慢は「街で3階建て以上の鉄骨はみんな自分が手掛けた」ということでした。
また、祖母の自慢は、新宮の街で最初にテレビを置いたのがうちだということでした。しかし後で聞いたら、それはお店が宣伝のために置いてくれただけだったらしいんです(笑)。いずれにせよ、いい時代に巡り合ったのだと思います。
そんな私がなぜ、仏教に関心を持つようになったかというと、2歳の時に祖父が亡くなったことです。肺がんでした。そのお葬式に子供ながらに触れたのが、私の記憶の始まりです。「人間は、こうやって死ぬものなんだな」と感じたことを覚えています。