日本メーカーでトップクラスの商品点数
─ 新領域を開拓する余地があるということですね。商品数はどのくらいあるんですか。
遠藤 約1万アイテムあります。様々な商品は「POSシステム」に登録されていますが、日本の単一のメーカーで、トップクラスの登録数なのではないかと思います。
我々の特徴は、製品一つひとつの単価は高くないことです。売上高はグループ全体で約440億円と、そこまで多くはないのですが、単価の高くない製品を、これだけの数取り扱っていると。
数の多さは自慢にはなりませんが、これだけの点数の商品の在庫をコントロールしながら、お客様にご満足いただけるような形で供給すること。これは手前味噌ですが、きっちりできているのではないかと思います。
─ 少量多品種で経営を成り立たせるのが貝印さんの経営ノウハウですね。生産はどのように進めていますか。
遠藤 全てを我々が生産するのではなく、我々が企画して、国内外の協力工場さんに生産してもらい、貝印の製品として販売しているものも多いんです。そのバランスやコントロールは、我々の一つのノウハウです。
モノづくりのキーワードは「DUPS」です。Dはデザイン(Design)、Uは独自性(Unique)、Pが特許(Patent)、Sが安全(Safety)と物語性(Story)です。これらを基本スタンスに商品やサービスの開発を進めています。
新製品のアイデア出しや開発には時間を割いており、毎年約600アイテムの新製品を出すと共に、製品の新陳代謝を行っています。
─ 製品の販売先もかなり多岐にわたりますね。
遠藤 スーパー、ホームセンター、ドラッグストア、百貨店などあらゆる場所です。リスク分散の観点もあります。先程、コロナの影響のお話をされましたが、巣ごもり需要で家庭用品がよかった一方、インバウンド(訪日外国人観光客)が減りましたから、ホテル向けの剃刀などは売り上げが減少しました。
しかし、様々な場所で販売しているため、ある所は影響を受けても、ある所は好調という形になり、リスク分散になります。コロナ禍の中でも業績的にはプラスでした。
─ リスク管理に関して、先々代、先代から受け継いだものはあるんですか。
遠藤 2代目の父の時代に多岐にわたってリスク分散をする手法を取り入れました。だからこそ、商品の点数もお得意先も増えてきたのです。
創業者である私の祖父は、1932年に日本人で初めて国産の剃刀をつくった根っからの職人でした。それまでの剃刀は輸入だったんです。
当時、神戸でドイツ人の方が細々と剃刀を生産していたのですが、事情あって本国に帰ることになった時に、祖父がそれを聞きつけて機械を買い、国産の剃刀をつくり始めました。最初は全くものにならず苦労をしたようですが、何とか製品化に漕ぎ着けたのです。
同じ関市で生まれたフェザー安全剃刀という会社がありますが、こちらも祖父が創業した兄弟会社です。同じ岐阜出身の商人の方に声をかけて、国産剃刀をつくってやっていきましょうということでできたのがフェザーです。
祖父には子供がおらず、私の父は養子です。父はフェザーの剃刀販売から始めた商売人であり、これが我々グループの原点でもあります。
─ 貝印ブランドの剃刀を出したのはいつ頃ですか。
遠藤 1951年にお風呂場などに置かれていた「軽便剃刀」の製造を始めました。これが貝印ブランドの初めての製品となりました。外資のジレット、シックに対抗するためにフェザーは替え刃、貝印は軽便剃刀という形で棲み分けていこうというのが、祖父や父の考え方でした。
─ この視点はよかったということですね。
遠藤 そうですね。「ディスポーザブル」の時代というのがありました。当時、我々の剃刀、100円ライター、ボールペンが「3大ディスポ」と言われて持て囃されたのです。
その後、1963年には剃刀の自由化がありました。それまではジレットやシックの製品に高関税がかけられていたものが撤廃されたのです。