2022-08-22

【キッコーマン名誉会長 ・茂木友三郎のリーダー論】リスクを取らなければ、新しい価値は生まれない

キッコーマン・茂木友三郎 名誉会長

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ポピュリズム台頭の中で

「内外で、今まで解決されず、放置されたままの問題が山積している状況で、日本はどうするかという課題」と茂木氏は切り出し、次のように語る。

「先のフランスの大統領選挙でマクロンさん(大統領)は思ったよりも票が取れなかった。その後の国会議員の選挙では過半数を割ったわけです。それでポピュリスト的な動きがかなりヨーロッパでも見られる。ドイツだとかオランダなんかでも、そういうことが見られるわけですね。それから米国もトランプさんの復活の動きがある。あれもやはりポピュリスト的な流れというふうに言えると思います」

 なぜ、そういった事が起きるのか?
「今まで解決されないで放置されてきた問題が多くて、それらを一挙に解決してくれそうな強いリーダーを人々が求めるようになると、ポピュリズムに結びつく。米国や欧州でそういう傾向が見られるということです」

 ポピュリズム。大衆迎合主義と訳されるが、問題の本質的解決からは程遠く、一断面を自らの都合のいいように切り取って、意見を押し通し、結果的に対立構造などを長引かせることになる。
「日本は今のところ、そういう動きは見られませんが、しかし、日本も放っておくと、そういうことになりかねないということですね。何とかそうならないうちに、今まで放置された問題を解決するべく努力しなければいけないということ。これが令和臨調の発足の背景にあるんです」と茂木氏は語る。

 この『令和臨調』の共同代表には、茂木氏のほか小林喜光(前三菱ケミカルホールディングス会長、前経済同友会代表幹事)、佐々木毅(元東京大学総長)、増田寛也(日本郵政取締役兼代表執行役員)の3氏も就任、4人の共同代表制を敷く。

 この4人は、前出の安倍元首相が銃撃された事件が起きた7月8日、令和国民会議(令和臨調)として共同代表談話を発表。
「我々は、暴力による自由な言論の封殺を許さない。我々は、言論に基く政治を守り、育てていくことの必要性を、党派や立場を超え、すべての人が確認し共有することを強く訴える」
 こう4人は訴え、「日本社会においても民主主義の危機が今そこにあるという現実を直視し、日本の民主主義の基盤強化に取り組み、社会不安や分断の払拭に向けて尽力することを改めて決意する」との意思を表明。

 令和臨調が正式に発足したのは6月19日。党派を問わず、国のあり方を、そして民主主義の根幹をどう持続させていくかを共に考えようという趣旨の下、岸田文雄首相(自由民主党)をはじめ、公明党の山口那津男代表、野党・立憲民主党の泉健太代表、日本維新の会の馬場伸幸共同代表、それから日本共産党の志位和夫委員長、国民民主党の玉木雄一郎代表ら与野党幹部も出席し、それぞれ国のあり方について思いを述べた。

「要するに、政治家も志のある人、改革を進めようというわれわれと同じ志をもった人たちに入ってもらおうと。正義感の強い人たちの集まりをつくってもらって、そこで我々が一緒に議論をして、納得してもらえれば、そのまま実行に移していくと。法案をつくってもらったりというような事にもなっていく。そういう行動をぜひ取っていきたい」という茂木氏の思いである。

約50年前、リスクを取って米国に生産拠点を建設

 茂木氏は1935年(昭和10年)2月生まれ、キッコーマン社長、会長を務め、現在取締役名誉会長、取締役会議長を務める。茂木氏はキッコーマンをグローバルカンパニーに育て上げた経営者として知られる。
 同社は醤油の産地である千葉県・野田の醸造会社が集まって、1917年(大正6年)野
田醤油(現キッコーマン)を設立したのが始まり。創業105年の歴史の中で、醤油の最大手というだけでなく、醤油関連の調味料、和風総菜の素、デルモンテトマト製品、本みりん、そしてマンズワインや豆乳飲料など幅広い食品領域を開拓。

 茂木氏は約50年前の1973年(昭和48年)、米国ウィスコンシン州での醬油工場立ち上げを任され、地元住民との立地交渉から原料調達などに奔走。
 日本の食文化で育った醤油を海外に売ろうと、同社が米国に販売会社をつくったのは1957年(昭和32年)。
 醤油はステーキに合うということを米国の消費者に浸透させようという戦略。そして、米国中西部の最北、ウィスコンシン州やその周辺は醸造に必要な小麦や大豆の一大産地。地区住民との話し合いに、当時38歳の茂木氏は奔走した。何度も何度も折衝を重ね、ついに話し合いを成立させた。

 茂木氏は、1958年(昭和33年)慶大を卒業して同社に入社。3年後の1961年、米コロンビア大学に留学、ビジネススクールでMBA(経営学修士)を取得。在学中には、ニューヨークの百貨店などで醤油の販売を手伝い、「ステーキに醬油を」とお客に勧めていた。
 それだけに、1957年の米国での販売開始から16年後の1973年、今度は自らが現地生産化を果たす役回りを引き受けた時、それこそ必死であった。
 1997年にはオランダにも工場を建設し、ここから欧州全体に醤油を供給。ASEAN(東南アジア諸国連合)地区では、要所のシンガポールに生産・販売拠点を構える。
「今は当社の利益の70%以上を海外であげています」と茂木氏。
 その経営の基本には、〝日本の食文化を世界に〟、〝世界の食文化を日本に〟という経営理念がある。

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本誌主幹 村田博文

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