「母の性格は、そのまま私に強い影響を与えている」──SMBC日興証券会長の清水喜彦氏はこう話す。銀行では法人営業で鳴らし、証券会社に転じてからもリーダーシップを発揮してきた清水氏。その母・喜子さんはネアカ・ポジティブ、働き者、人への感謝の気持ちが強い人だった。その姿を見て育った清水氏にも、その気質が自然と備わっているようだ。
両親は偶然の縁でお見合い結婚
母・喜子は山梨県甲府で5人兄妹の唯一の女性として生まれました。兄2人、弟2人でちょうど真ん中だったのですが、私にとっての祖母が早く亡くなったこともあり、家族の中で母親代わりを務めていたそうです。
祖父は海軍の軍人でしたが、戦後は農業と氷店を営んでいました。母は農業と氷店の仕事を手伝いながら、弟達の世話もしていたこともあり、当時としては結婚が遅い方でした。
父・彦四郎は7人兄弟の二男として生まれましたが、長男が早逝し、実質6人兄弟の長男です。父が二男なのになぜ「彦四郎」かというと、祖父が「強い子に育って欲しい」という願いを込めて、後醍醐天皇の皇子を護って戦った豪傑・村上彦四郎義光から名前を取ったのです。
父が旧制甲府中学(現・甲府第一高等学校)1年生の時に、祖父母が立て続けに亡くなってしまい、兄弟を育てるために学校を辞めて、国鉄(日本国有鉄道、現・JR)で働くことになりました。父も弟達の面倒を見ていたため、本人はなかなか結婚できませんでした。
そうして父が29歳、母が26歳の時に、全く関係のない2人の方から、偶然にも同じお見合いの話が双方に持ち込まれたのです。父は「違うところから同じ縁談が来るのも何かのご縁」としてお見合いをし、父が30歳、母が27歳で結婚しました。
1年後に私が生まれましたが、父は私が生まれてすぐクモ膜下出血で倒れてしまい、1年ほど東京で入院生活を送ることになってしまいます。しかし母はへこたれませんでした。
母の性格の特徴は3つあり、私は強く影響を受けています。1つ目は非常にネアカでポジティブです。父は私が高校2年生の時にもクモ膜下出血で倒れ、この時には4カ月間意識が戻らなかったのですが、母は「何とかなる」と常に前向きでした。
そしてどちらかというと大雑把な人です。おおらかと言ってもいいかもしれませんが、人に対して分け隔てがないのです。父が兄弟の多い人でしたから、夏休みになると叔父・叔母が子供達を連れて我が家に集まります。大人達は何泊かすると帰り、多い時で15人の子供達が1カ月近く過ごしていたのです。
面倒を見るのは母ですが、家のこともありますから、子供達に付きっきりになるわけにもいきません。ですから例えばお昼ご飯には大量のそば、天ぷらを大皿に用意して、後は子供達に任せるという状態です。
この時、私は子供でも数が集まると派閥ができるのだということを知りました。私は本家の長男ですから10人ほどの最大派閥で、3つ下の弟のところが2、3人、どちらにも属したくないという同い年の従姉妹と小さい子といった形です。
お昼の天ぷらそばも、最初は私が全て取るわけですが、それではケンカは終わりません。そこでわかったのは、自分がある程度取った後には、相手にも分け与えないと、私が食べる時間がなくなるということです(笑)。
武田信玄公は「およそ戦というものは、五分をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす」としていますが、実生活の中でも理解できる話です。
母の2つ目の特徴は働き者だということです。前述のように、実家では家族の面倒を見ながら農業、氷店の仕事を手伝っていました。
嫁いでからも、子育てに加えて父の弟達の世話をしながら、家では貴石加工の工場を営んでいました。山梨は水晶が有名ですが、これを「大割り」といって板状に加工する機械を4台、24時間体制で稼働させていたのです。母は昼夜問わず働く生活を苦にしていませんでした。
3つ目は人に対する感謝の気持ちが強いことです。「ありがとね」が口癖でしたが、祖母が亡くなった後、父が倒れた時など、周りの人に助けてもらったという思いがあったからです。
私の妻は「『ありがとね』という言葉は強いんだね」としみじみ言っていました。母は話の結論を急ぐ私にはあまり電話をせず、いろいろ話を聞いてくれる妻によく電話をしていました。
もちろん妻にもいろいろ都合もあるわけですが、母に「うちはいいお嫁さんが来てくれて本当にありがたい。ありがとね」と言われると悪い気はしませんし、ご近所にも言っていますから、巡り巡って本人の耳にいい評判が入ってくるわけです。
私はこれら3つの母の特徴に加え、几帳面な父の気質も受け継いでいますから、仕事の面では大いにプラスに働いています。
左から、清水さんの母・喜子さん、父・彦四郎さん
人を束ねる面白さに目覚めて
私が小学校2年生の時、引っ越しをすることになりました。住宅街の中で工場を運営していたため、騒音の問題が出てきたことで、同じ甲府市内の郊外に移ることにしたのです。
この時、小学校の学区が変わるので転校する話が出ました。ただ、私に記憶はありませんが相当ゴネたようで、バスで越境通学をすることになりました。
朝夕ともに通勤・帰宅ラッシュに巻き込まれないように、少し早い時間に移動する必要があり、特に放課後は遊んでいる途中に抜けなくてはなりません。野球にしてもドッジボールにしても私が抜けたチームは不利になるわけです。
そうなると仲間外れにされるようになり、元々はガキ大将タイプの私ですが、少しずつ内気になっていったのです。図書館で本を借りて家で本を読む生活をするようになりました。
甲府西中学に進んでからもガキ大将の部分と、仲間外れにされた名残りとでモヤモヤした日々を送っていましたが2年生の時、全国から研修で多くの教員が我々の中学に訪れた際、なぜか私が司会を任されました。それが高評価だったようで、生徒会選挙の際に役員に立候補するよう打診がありました。
それを断ったところ、では選挙管理委員長をやりなさいということになりました。当時、生徒会選挙をしても立候補がほとんどないと聞いた私は「それではいかん」と義憤を感じ、みんなを説得して、史上最多の立候補者を出す選挙を実現しました。
結果、生徒会役員を決める際に、私は書記長に推されました。その仕事の一つが全校朝礼の司会です。1200人の生徒が私の号令で動くわけですが、これは私が組織を束ねることの面白さに目覚めたきっかけでした。運動ができる、絵が上手、ケンカが強いといった個性を持つ面々をどう束ねていくかを考えるようになったのです。
宿澤広朗さんとの出会い
高校は甲府第一高校に進み、同じ学校出身の父は非常に喜んでくれました。ただ、前述の通り2年生の時に父が倒れ、大学進学を諦めて働きに出ようと考えていました。その時に親友が東京で病床の父に付き添っている母に「喜彦に早稲田大学の推薦を受けさせてあげて欲しい」と電話をしてくれたのです。
すると母はすぐに担任の先生に電話をしてくれ、推薦を出してもらえることになりました。親友の助けと、母が動いてくれたことで道が開けたのです。
銀行への就職はご縁としか表現できません。卒業を控えて、ゼミの青木茂男先生に就職の希望を聞かれた私は「商社に行きたいです」と答えました。すると先生は「商社には君のような人間は多い。しかし銀行には少ない。もっとも、銀行に行ったら、成功するか失敗するかのどちらかだ」と言うのです。
そうして銀行を回ることにしたのですが、ゼミの仲間から「住友銀行(現・三井住友銀行)に行こう」と言われました。ラグビー日本代表、後に日本代表監督、三井住友銀行取締役専務執行役員も務めた宿澤広朗さんがリクルーターで、サインをもらえるという話です。
集団面接を受けた後、見込みがあると思ってもらえたのか、宿澤さんから電話をもらい、再び住友銀行を訪ねました。するとそこで3時間待たされ、その後に出てきた方にイライラのまま本音をぶつけたところ、なぜか気に入ってもらえたようです。出てきた方は当時の取締役人事部長でした(笑)。宿澤さんからはひどく怒られましたが、その場で採用が決まりました。
銀行、そして証券会社で仕事をしてきましたが、意識してきたのは母譲りのネアカ、ポジティブに、とにかく働き者であろうということです。
そしてリーダーとしては率先垂範する、全体最適を意識する、現実に向き合って解決法を考えるということを自分でも意識し、後に続く人達にも伝えてきたつもりです。