2021-04-06

【母の教え】コージ アトリエ・渡辺弘二社長「ファッションショーの当日、大雪が降っても動じない母の姿に勇気づけられて」

渡辺弘二・コーチ アトリエ社長兼エグゼクティブデザイナー

「肚の据わった母の姿は今でも覚えています」とはファッションデザイナーの渡辺弘二氏。東京・銀座で壱番館を創業した父・實さんを支えた母、八重子さん。實さんは3度出征したため、戦時中は店を切り盛りしながら5人の子どもを育てた。その母の姿にいつも勇気づけられてきたと話す。

明るく、働き者の母


 私の母・八重子は1911年(明治44年)4月6日に千葉県安房郡で呉服店を営む家に、兄2人、姉1人、弟1人の5人きょうだいの次女として生まれました。

 性格は明るく、商家に生まれたせいか働き者で、お客様をおもてなしすることに喜びを感じる人でした。また、きょうだいの中では最も気が強かったそうです。

 千葉県立安房高等女学校(旧・安房南高校、現・安房高校)を卒業した後、長野県で呉服店を営む家に生まれた父・實とお見合いをしました。父は実家の呉服店が倒産した後、東京に出てきて親戚筋の洋服店で修業をし、1930年(昭和5年)に独立して「壹番館洋服店」を開業しました。結婚は、それから間もなくのことです。

 母は父から「銀座で開業している」と聞いて、どんなお店が楽しみにしていたそうですが「借家でがっかりした」と話していました(笑)。後にその土地は購入しました。

 私は男2人、女3人の末っ子として生まれました。両親ともに家族思いでしたが、教育面では厳しいものがありました。きょうだいは皆、慶應義塾大学の附属校に通い、大学も卒業しましたが、これは特に父が強く望んだことでした。

 そのため母も厳しく、例えば私が中学校時代、初めての父兄会で私の成績がよくないと聞かされた母から、ひどく怒られたことを覚えています。ただ、私は末っ子で、未だに兄や姉からは「弘二は可愛がられていた」と言われます(笑)。教育に関しては両親とも厳しかったですが、私たちには、その裏に愛情があることが伝わっていました。

 父は大戦中3回出征しています。私は父が復員後に生まれたのですが、戦時中と戦後すぐは父の不在を埋めるために母が奮闘しました。例えば進駐軍の将校の階級を示すワッペンを付ける仕事などをしていたのです。

「人」との出会いに支えられて


 我々家族は当時、お店の裏にあるモルタル2階建ての家に住んでいました。現在は壱番館ビルとなっています。2階は工場になっていましたが、私にとっては子どもの頃の遊び場でした。ハサミの音、アイロンの匂いが好きだったことを覚えています。

 小学生時代はソフトボール、中学からはラグビー、さらには柔道に打ち込むなど、スポーツに明け暮れていました。最終的に柔道は大学卒業まで続けて、五段まで取得したのです。兄の明治は私より強く、慶應大学柔道部の主将を務めるほどでした。

 デザインの仕事は、幼い頃から漠然と意識はしていました。例えば幼稚園の頃にお絵かきで賞をもらって以来、小・中・高と絵を描くことは私にとって自然なことで、ストレス解消になるほどでした。

 壱番館は兄が後を継ぎましたが、私が大学3年生の時、進路をどうしようかという際には家族会議が開かれ、父から「弘二は婦人服をやったらどうだ?」と言われました。私が「できるかな? 」と言ったら、父は「お前は絵がうまいからできるよ」と言います。父は私が子どもの頃から絵に親しんでいたのを見ていたのです。当時、壱番館ビルの3階を貸していたのですが、そこを私のスペースとして使って仕事をしなさい、ということになりました。

 そうして私は大学を卒業した69年にロンドンに渡りました。当時は今と違って海外との距離が様々な意味で遠かったですから、心配をかけたと思います。電話をするのにも、申請をしてから30分ほど待ってからでなければつながらない時代です。修業中に一度、両親がロンドンに遊びに来て、3人で欧州旅行をしたことは楽しい思い出です。当時母が私に書いた手紙が残っていますが、いま読むと涙が出てきます。

 テーラーの本場であるロンドン、そしてファッションの本場であるパリで修業した後、72年に帰国してコージ アトリエを立ち上げたのです。

 私の仕事に関連して母が喜んでくれたのが、NHKで放映されていた『婦人百科』への出演です。最初はスラックスの作り方を週1回、計4回紹介しました。当時は父も出演したことがありませんでしたから「うらやましいな」と言っていました(笑)。

 私自身も、NHKに仕事が認めてもらえたわけですから、嬉しかったですね。お客様からの信用にもつながりました。

 そして私が事業に自信を持つことができたのは、83年に英国王室が後援するロイヤルコレクションで作品を発表したことです。85年には英国王室のアン王女の装いをデザインし、ヴァッキンガム宮殿で仮縫いを行ってお納めしました。アン王女はデザイナーにリスペクトがある方で、デザインに関する対話をさせていただくこともできました。

 88年には東京スタイルと契約、以降約30年に渡って関係が続いたことも事業の成長、安定につながりました。その意味で、大事なのは「人」との出会いだとつくづく感じます。

 母は壱番館でもそうでしたが、私が48年間、年に2回続けたファッションショーでは毎回、お弁当をつくってくれました。お弁当といっても社員、モデルさん、ショーの運営スタッフの皆さんなど30人分ですから相当な量です。大変だったとは思いますが評判がよく、モデルさんなどは母のお弁当を楽しみにしている人が多かったのです。

 ファッションショーの当日、大雪が降ったこともありました。当時の日本の観測史上でも屈指の大雪で、朝起きたら一面真っ白だったのです。こんな状態ではショーにお客様が来てくださるかどうかわかりません。

 しかし、母のところに行くと、いつものようにおにぎりを握っています。全く動じもせずに「こういうこともあるよ」と一言。戦争を経験し、父が帰ってくるかわからない状況の中で5人の子ども達を育て上げた母ですから、肚の据わり方が違いました。

 常に母は「自分には何ができるか? 」を考えていたのだと思います。父が亡くなった後、バブル崩壊で世の中の景気がおかしくなり、我々の事業にも悪影響が及びましたが、母はいつも気丈でした。私には2人の子どもがいますが「2人が学校を卒業するまでは心配しないで」と励まされるほどでした(笑)。

 父から学んだのは堅実な経営です。父は手形を一切出さずに常に現金商売に徹していました。また、「保証人にはなるな」と言っていました。父方の祖父が連帯保証人になってしまい、それが実家の呉服店の倒産につながってしまったことが原点にあります。そして何よりも「お客様を大事にしなさい」ということは常に言っていました。

 父は明治生まれの人間で、家では「家長」という感じで振る舞っていました。しかし、お店に出るとお客様に対しては本当に腰が低く、丁寧に接していましたから、商売とはこういうものだということが、肌で感じることができたのかもしれません。

家族写真
家族写真。前列左から父・實さん、渡辺さん、母・八重子さん

若い人たちに自分の経験を伝えていく


 母は11年に100歳で亡くなりました。1人暮らしをしていましたが晩年、私は週3回、泊まりに行っていました。別の部屋で寝ていたのですが、母は朝4時、5時、6時と3回、「弘ちゃん、いま何時? 」と私を呼ぶのです。

 朝早く起こされるので大変でしたが、私も今、感じるのは歳をとると、誰かが近くにいることで安心するということです。母は時間が知りたいというよりは、私の存在を確認したかったのだと思います。母の最期の時間を一緒に過ごすことができましたから悔いはありません。

 私は経営をする上で、お客様、家族、社員、関連会社の皆さんという4つを大切にしてきました。経営者が私欲を出しては人は付いてきません、この4つを大切にすることで、結果として事業の成長につながるのだと考えています。今、長女の陽子が後継者として頑張ってくれていますが、このことは大事にして欲しいと思います。

 また今、千葉県立佐倉東高校でデザイン、デッサンを教えていますが、私自身にとっても気づき、癒しの時間となっています。若い人たちに自分の経験を少しでも伝えていくことが、私のこれからの仕事ではないかと考えています。

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