2021-04-18

【母の教え】東京都市大学・三木千壽学長「何事も自分で決めなさいというスタンスだった母。その母のお陰で今の自分があります」

三木千壽・東京都市大学学長

東京都市大学学長であると同時に、橋梁工学を専門とする三木千壽氏の父・久壽さんは九州大学を卒業後、海軍の技術将校から農林省に入省して公の仕事に携わった。仕事柄、転勤が多く、頻繁に引っ越ししていた三木家で家族を支えたのが母・喜久美さんだった。常に優しく、子供が決めたことを尊重してきた母のお陰で今の自分があると語る。変化の時代を生き抜いた両親に感謝を示す日々だ。

引っ越しの多かった幼少期

 自分のこれまでの歩みを振り返ってみると、特段、意識していたわけではないのですが、母・喜久美の存在や言葉が、わたしの決断に影響を与えていたのだなと感じます。

 母は徳島県・鳴門市土佐泊の出身。鳴門公園がある島で生まれ育ちました。7人きょうだいの末っ子。末っ子の女の子ですから両親からは大層可愛がられていたそうです。県立撫養高等女学校を卒業しています。

 一方の父・久壽も徳島市の沖浜出身で、5人きょうだいの長男。そんな2人はお見合いを経て1944年に結婚。長男であるわたしは47年1月生まれですから、そのときの母の年齢は20歳でした。女学校卒業後、すぐに父と結ばれましたので、母がよく「何も外の世界を知らずにお父さんと結婚したのよ」と言っていたことを覚えています。

 父は大学を卒業した後、海軍の技術将校になりました。本人は母と結婚したときは、中尉だったと言っていました。ところが戦後、公職追放で失職。徳島の実家に戻り、徳島県庁の雇い員になったそうです。

 そんな立場だったこともあり、わたしが生まれてからも県内5カ所くらいの県の事務所を転々とする生活を送っていました。その後、わたしが幼稚園に通っていたときに、県の雇い員から農林省(現農林水産省)に入省しています。大学を卒業していたのが大きかったのかもしれません。

 父は農業土木の技師です。農地用のダムや頭首工(川をせき止めて、農業用水を用水路に取り入れる施設)の建設をはじめ、灌漑土木などを担当していました。わたしが覚えているエピソードとしては、59年に紀伊半島から東海地方を中心にわたって甚大な被害をもたらした伊勢湾台風襲来の話です。父がその災害復旧の担当班長となって陣頭指揮をとったようで、1カ月ほど家に戻りませんでした。

 他にも父の自慢はオランダ式の堤防を導入したこと。その頃、愛知県の尾張丘陵部から知多半島にかけての一帯に農業用、工業用、上水道用の水を供給する愛知用水が完成したのですが、それにも関係していたようです。

 農林省に入っても父の転勤は相変わらず多く、入省するとすぐに山口県庁に出向することになりました。小学4年生の夏休みまでは山口に住んでいたのですが、その後は東京の練馬に引っ越し。その東京生活も中学2年で終わり、中学3年のときに広島に転居しました。

 父の転勤に伴って2~4年ごとに次々と住む場所が変わるわけですから、例えば、わたしの進学先を巡っても悩ましい面がありました。小学校の先生から中学受験を薦められたのですが、私立学校に進学したとしても父の転勤で通えなくなってしまうかもしれない。国立ならいいよ、といったようなこともありました。高校受験では広島大学附属高等学校に合格することができました。

 しかし、高校1年の途中で父は東京に転勤になり、わたしは広島に1人で残るか、東京の高校の編入試験を受けるかの決断を迫られました。家族は一緒がいいということで、都立大泉高校に転校しましたが、その編入試験がわたしの人生での最難関でした。

怒られた記憶はほとんどない

 もちろん、母も転勤する度に近所付き合いなどで苦労を重ねたのではないかと思います。しかも、母は他の母親よりも特段若かったので、学校のPTAの会合などには必ず顔を出し、雑用などを引き受けていました。ただ、そのことを悩んだり、愚痴をこぼすようなことは一度もありませんでした。

 とにかく母は優しい人で、声を荒げて怒ったり、「勉強しなさい」と指導することはほとんどありませんでした。挨拶や目上の人に対する言葉遣いといった躾に関することで注意を受けたりしたことは何回かありましたが、こっぴどく母に怒られたという記憶はありません。

 毎回、知らない土地へ引っ越していたために、前の土地の方言がとれず、行く先々の学校でいじめを受けるようなこともありましたが、わたしも負けん気が強いので、相手と取っ組み合いをすることはよくありました。

 そんなわたしがケガをして帰ってきても、母は「またケンカしたの? 」と言うくらいで、わたしを咎めるようなことはしませんでした。母のスタンスは「何事も自分で決めなさい」というスタンス。それに対して反対することは全くなかったのです。

 それを象徴するような出来事があります。わたしたちは東京をベースにした転勤を繰り返していたときでも、毎年夏休みになると、祖父母がいる父の徳島の実家に遊びに行っていました。

 そして今では考えられないかもしれませんが、わたしたちが小学5年生のときの夏休みのことです。毎年のように徳島へ帰郷することになったのですが、ふとわたしが「妹と2人で行ってきたい」と母に提案すると、何と母は「行ってらっしゃい」と了承。父が切符を買ってきてくれて、妹と2人で急行「瀬戸」に乗って徳島に帰りました。

 わたし自身、汽車が好きだったので嬉しかったですし、特に不安もありませんでした。夜行列車でしたから、東京から乗り込んで寝てしまえば翌朝には岡山の宇野。そこから宇高連絡船に乗って高松まで行き、そこから再び汽車に揺られて徳島に着く。

 そんな母の趣味と言えば生け花。ご近所との付き合いが上手ということもあって友人も多く、その付き合いの中で花の面白さを知ったようです。その趣味が高じて東京に住んでいた頃には母の知人が、いけばなの大家である華道家元・池坊の先生に紹介状を書いて下さり、母が直接習いに行ったこともありました。お陰で家には母のお弟子さんが通ってくるようになりました。

 また、母は裁縫も得意で、わたしや妹の洋服は手づくりでした。特に覚えているのはセーター。古くなって縮んでくると、母が糸をほぐして編み直してくれるのです。父が公務員とはいえ、家が裕福なわけではなかったのでしょう。母には節約家という一面もありました。

母の故郷で橋梁と出会う

 とにかくわたしの決めたことを尊重してくれた母。わたしが“橋”というものに興味を抱いたきっかけも、母が鳴門の出身という巡り合わせがあったのかもしれません。前述した通り、母は鳴門市の島で生まれ、実家の周りには桃や梨、みかんがなる山があったのですが、夏休みになると山に登って橋の工事を見るのが楽しみだったのです。

 この橋が今の小鳴門橋。わたしが小学校4年生の頃にできました。当時は本州四国連絡橋で神戸・鳴門ルート、児島・坂出ルート、尾道・今治ルートがどこから架けるかで競っているときで、徳島県の熱意を示すかのように架けられたのが小鳴門橋でした。小鳴門橋につながるトンネルが母の実家の山にできたときは、とても興奮したことを覚えています。

 61年に橋が開通すると、島の人たちの生活は劇的に変わりました。これまでは小さなフェリーや手漕ぎの船で海を渡っていた生活が格段に便利になったのです。まさに橋を架けることは島の人々からすると悲願だったのです。しかしその反面、山の桃や梨やスイカなどが泥棒に取られてしまうという被害も出てきました。幼心に橋が人々の生活を変えることを実感しました。

 そしてわたしが構造工学や橋梁工学を専門とする学者の道を歩もうと決めたのですが、それに関しても母は「自分で決めなさい」という一言だけ。父には「大変だよ」と反対されたりもしましたが(笑)。また、32歳のときに失職しかかって初めて挫折
を味わったのですが、母は「大丈夫なの? 」と優しい言葉をかけてくれました。その後、2015年にわたしが東京都市大学の学長に就任したときはとても喜んでくれました。徳島新聞に出たことにより、親戚から連絡をもらったと喜んでいました。

 父は2年前、99歳で他界してしまいましたが、母は今も至って元気。今年で94歳になりますが、ピンピンしています。いつも穏やかで優しい母。好きな道を歩むというわたしの決断をいつも尊重してくれたからこそ、今のわたしがあると思います。


米寿を迎えた母・喜久美さん(右)を祝う父・久壽さんと三木さんの長女・千恵さん

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