2021-05-27

【特別寄稿:倉本聰】「そしてコージは死んだ」

倉本聰

親しき友人の「死」

 親しい友人が癌で死んだ。

 62歳。日本尊厳死協会の会員だったが、その会員証は何の役にも立たなかった。僕は今、悲しみと空しさと、怒りの中でこの文を書いている。

 友人。コージとだけ記しておこう。コージは僕の富良野塾の創設期からのスタッフであり、 40年近い付き合いになる。

 ログビルダーに憧れており、カナダにも修業にやり、こつこつと一人技を磨いて塾の建築のリーダーとなった。丸太小屋を含む十数軒の家を作り、僕の今住んでいる石造りの住宅もアトリエと呼んでいる稽古場も全て彼の作りあげたものである。

 九州男児。寡黙にして我慢強い。実にさわやかな男だった。

 その彼が肺癌に冒されたのは、今から約2年半近く前のことである。既にステージ4と言われましたと、照れたような顔で報告に来た。あと2年くらいが限界だそうです。

 彼はその齢でまだ独身であり、自分の柊の棲家となる家を一人コツコツと建てている最中だった。だからその家で死にたいです。病院に入ることは絶対厭です。彼は通院して治療を受けながら、苦しみの間を盗んで自の家を完成させようとした。僕は直ちに旭川の大学病院を紹介し、同時に、尊厳死協会への入会をすすめた。

 富良野は人口2万2千。協会病院という総合病院があるが、ここには旭川の大学病院からの派遣医たちが主につとめている。

 丁度数年前、『風のガーデン』という末期癌に冒された医師のドラマを僕は書いており、その時、膵臓癌のことと、緩和ケアの実情について、かなりの勉強を僕はしていた。殊に旭川の大学病院で緩和医療を主導しておられるI先生という麻酔科の教授には台本の監修をお願いして親しくさせていただいていた。先生は既に定年を迎えて、札幌の病院に移っておられたのだが、そのお弟子さんが旭川の医大で緩和医療室を継いでおられたので、その方に話を通していただき、緩和ケアの専門家のいない富良野の病院の担当医と密な連絡をとっていただくことにした。そういう形でコージは在宅のまま抗癌剤治療をし、調子の良い日はそれでも仕事を続けていた。

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