四十数年前、富良野に移住を決意したとき、一番先に僕のしたことは、町を歩いて病院の所在を確認したことである。
町の中央にさほど大きくない、富良野協会病院という総合病院があった。それは都会で見るような近代的な大病院ではなく、恐らく設備や医療のレベルも最先端の都会のものに比べて何年か遅れたものだろうと思われたが、此処に移住を決意した以上、何年か遅れの医療の基準で命を終えれば良いのだと覚悟した。
今その病院は建て直されて、四十年前とは比較にならない設備と医療を備えた新しいものに生まれ変わっている。だがその病院で僕はコージの、最後の日の苦しみに立ち会ったのである。それが僻地の病院だからとは、僕は断じて思わない。
それは医術の進歩とは関係ない、医学という一つの学問の中での思考のあやまり、いわば哲学の欠如である気がする。
そのことに僕は今、口惜しさと怒りを噛みしめている。