アフターコロナを見据えて―世界は活発な投資を「航空分野は昨年度も驚くなかれ、われわれの空港からの受注や売上は最高でした」と下代氏は語り、次のように続ける。
「というのは、コロナ危機だからといって、海外はそう簡単に空港建設を止めるとか、計画を延期するとかいうのは、基本的にないです。米国などは一部で大手エアライン専用のターミナルで1年、2年延期するというケースがあります。確かに航空業界は一時的に体力を消耗していますからね。しかし、国や州の空港公団などのターミナル計画や、老朽化した空港のリニューアルといったものはそれほど影響はありませんでした。というのはターミナル建設、整備の期間は3年、4年かかりますし、コロナで中止するということにはならないと思います」
航空分野でいえば、旅客需要はワクチン接種の進展と関わってくる。接種率の高い米国などでは国内航空便の利用者も回復し始めている。
昨年度の航空旅客数は世界で40億人。中長期視点で20年後には80億人に達するという見方もあるが、今後の人の移動をどう見るか?
「普通にいけば、航空の旅客数はまだ伸びると。このコロナ禍ということですが、旅行は戻ってくるし、人の動きも戻る。リモートワークで出来る仕事というのも十分分かったし、ビジネスにおける移動がどれ位になるのかは未知数ですけれども、人が会って話をしないといけないとか、人同士の直接的な交流というのもあると思っていますから、やがて結果は出てくると思います」
人の移動、モノの移動を支えるマテハン業界のトップとして、つまり産業界の黒(くろこ)衣の立場から、「もう皆さん、それがニューノーマル(新常態)なのかどうかは分かりませんけれども、アフターコロナを捉えて、やはり手を打つなどして進んでおられるのだと思います」という現状認識を下代氏は示す。
常に最新のものを開発 そして顧客との約束を… ダイフクは1937年(昭和12年)5月、大阪市西淀川区に設立された機械メーカー・株式会社坂口機械製作所に淵源をさかのぼる。終戦から2年後の1947年に大福機工に社名を変更。
その後、搬送機器メーカーとして、“初物”を次々と開発。1957年(昭和32年)、チェーンコンベアシステム1号機をトヨタ車体に納入。東洋工業(現マツダ)やいすゞ自動車、富士重工業(現SUBARU)と納入先が広がる。
1965年(昭和40年)、国産初の無人搬送車『プロントウ』を開発。
1977年(昭和52年)に洗車機の生産を開始。洗車機は同社の有力事業の1つになっている。
そして、1993年には、世界初の無接触給電搬送システムを開発。その1号機をトヨタグループの関東自動車工業岩手工場に納入。また、FA(ファクトリー・オートメーション)の時代になると、例えばファナックのロボット活用で“無人で動
く工場”建設の手伝いをするなど、活躍の場が広がっていった。
このように搬送システムづくりにおいて、日本で初めての自動走行や、初めての無人搬送車を開発し、世の中に送り込んできた歴史。
物流システムで最新のものを開発し、リードしていく──。
「これからの時代を考えて、次はこういう時代になるから、こういう新しい物流システムをお客様に提案し、送り出していこうという気持ちはこれからもずっと大事にしていきたい」
下代氏は“新しいものを開発する”というDNA(遺伝子)を大事にしたいと語る。
「トヨタ自動車さんに1959年、初めて元町工場に納入させていただいた自動車ラインのように決して生産を止めないと。ご迷惑をおかけすることもありますけれども、工場の稼働を守り続けると。そのためには、絶対に逃げない、絶対に約束を守る。そういったDNAというのは今も、ずっと続いていますから。そういう意味で、お客様からも信頼されるのだと。それは社員の生き甲斐になります」
世の中にはいろいろな危機やリスクが存在する。過去もそうだったし、現在も存在し、これから先も自然災害や環境激変を含めて、危機は起こり得る。
そうした状況に遭遇しても、顧客が抱える課題解決に向けて、先人たちがDNAとして残してくれている「『逃げない』、『諦めない』の精神を受け継いでいきたい」と下代氏は語る。
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