分断・分裂が進む時代にあって、経済人の役割とは何か─。「日本は軍事安全保障を考えるのもいいですけど、経済安全保障をもっと考えていかなければならない」と柳井正氏。米国、中国の双方で事業を展開し、海外売上高比率が全体の6割以上を占めるファーストリテイリング。柳井氏が、父親から衣料品店を受け継ぎ、実質的に起業したのは1984年(昭和59年)、35歳の時であった。以来40年、『LifeWear』(究極の普段着)という経営理念を掲げ、他とは違う商品をつくり、世界中の人々に服を提供するということで、『ユニクロ』ブランドを発展させてきた。“Global is local, Local is global”という考えの下、同社は成長。日本再生が課題の中、「保護した産業で成長した産業はほとんどないと思います。国は保護するのではなく、企業を奨励しないといけない」と企業の自主性が大事と柳井氏。日本(企業)の存在感が低下していることへの危機感から出発し、「経済人はチャレンジし続けることが大事」と語る。
時代・環境激変の中を生き抜くには?
「仕事というのは、自らが求めていくもの」─。
自分たちの経営理念に従って仕事をし、成果が出せるようになるにはもっと勉強して知識や人的ネットワークを広げ、深めていくこと。そして、もっと大事なのは「何より、実践していかないといけない」という柳井正氏の生き方・考え方。
ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正氏が郷里・山口県宇部市で衣料販売店『小郡商事』を父親から受け継いだのは1984年(昭和59年)、35歳の時。
その時から、柳井氏は単に衣料品店を受け継ぐのではなく、人とは違う商品づくりをしよう─という思いを抱いていた。
自分ができることとは何か? を思索し、『究極の普段着(カジュアルウェア)』をつくるという考えにたどり着いた。
「自分らしいライフスタイルをつくる時代。世界中の人が気軽に購入できるような商品を提供する」という考えの下、『Life Wear』(究極の普段着)という理念を構築。
時代や環境は変化していく。その中をどう生き抜くかということで、柳井氏はファッションの領域で生きることを決意。
故郷・宇部の地にとどまらず、広島市を皮切りに、大阪などの関西圏、そして首都圏、さらには中国・アジア、欧州、米国などグローバルに、次々と勝負の地を開拓していった。
「チャレンジし続けなければ、企業の成長はない」という柳井氏の言葉も、若い時から、今日まで一貫している。
柳井氏が35歳で起業した頃、父親から言われたことがある。
「お前、なんで他に店を出すのか。この商店街にいたら、一店舗でも子供を大学まで行かせられるし、それでいいじゃないか」
父親は親心から、そう無理しなくても、普通にやっていれば、そこそこ生きていけるのではないかと思い、そう柳井氏に言ったのではないかと思う。
しかし、「それでは済まないと思っていた」と柳井氏は振り返る。
故郷の山口県宇部市は、宇部興産やセントラル硝子などの有力製造業が製造の拠点を構える工業地区である。その宇部の街の変化について、柳井氏が語る。
「宇部は昔、炭鉱の街でした。石炭がエネルギーの主役の座から滑り落ちて、石油に取って代わられると、宇部や近くの徳山などに石油コンビナートとかアンモニア製造工場やセメント工場ができていった。それが、時代が移り変わり、工場はどんどん海外に移っていった」
1985年(昭和60年)の日米為替交渉=プラザ合意で、為替は円高局面になり、日本の製造業はコスト高に悩まされ続けた。生産拠点を海外に移す動きが活発になり、いわゆる生産空洞化が進んだ。
柳井氏は、「時代が変わると、産業が全部なくなるという現実を知っているし、知らされてきたんです」と強調。
柳井氏が続ける。
「どの産業もそうですけれど、最終的にはグローバル競争になる。グローバル競争になった時に、少なくとも日本で断然トップにならない限り、潰れてしまうことにもなる。商店街だけで満足して、そこそこの生活はできるかもしれませんけれどもね」
柳井氏は、1984年に実質創業して以来、グローバル競争を意識した経営を展開してきた動機をこう語る。