働き手をいかに確保するかが「2024年問題」の大きなテーマになっている。その中で小売業に特化した3PL(物流一括請負)で成長を続けるAZ―COM丸和ホールディングス社長の和佐見勝氏は「当社の教育の魅力を前面に押し出していく」と強調する。同時に、トラック1台で創業した和佐見氏は自らの経験から培った経営思想も社員に教え込む。「徳積み」と呼んでいる同社の生き方・働き方の根幹に据えるものとは何か?
和佐見勝・AZ―COM丸和ホールディングス社長(丸和運輸機関社長)「〝人財育成〟のポイントは響いて育つ、共に育つ、強く育つの3つです」「陽徳」と「陰徳」 ─ 物流の2024年問題が始まった中で、和佐見さんは教育や研修などを通じた人づくりでドライバー不足を乗り越えようとしています。和佐見さんの考える人づくりの要諦とは。
和佐見 当社の人づくりのポイントは「徳積み」です。徳と言っても、人に知られる「陽徳」と人に知られることのない「陰徳」がありますが、人知れずの心で徳を積むことが大事です。それが結果としてお客様の信用・信頼につながるからです。
─ 若い世代には、どのように伝えているのですか。
和佐見 徳をきちんと語る若い人は少ないと感じます。ただ、徳積みは日本独特な感性であり、人間の成長過程の中には徳という要素が必ずあります。当社には「桃太郎文化」というグループ共通の企業理念があります。組織が共有する価値観や信条、伝統、そして経営理念に至るまで、あらゆる企業活動の基盤になっています。私たちの全ての「考働」は、桃太郎文化から始まります。
─ 具体的に言うと?
和佐見 桃太郎文化は相手の成長を助ける文化です。相手とはお客様です。そのお客様の成長を必死で助ける。つまり、桃太郎文化も徳積みなのです。ややもすると、今の若い世代の経営者はデジタルの世界で成功しているケースが多い。そうすると、企業が成長したとしても、それが人間的な成長に結びついているかと言えば、それはまた別の話になったりするのです。
私の場合は、育ってきた家庭環境の影響もあって、徳積みとしての寄付行為は当たり前だと思って実践してきました。具体的には、私は私財から株式の一部(5億2000万円相当)と2020年に現金10億円、23年に会社設立50周年を記念して現金50億円を社員とパート従業員の皆さんに贈与しました。また、東京大学にも寄付をして千葉県柏市のキャンパスにラグビーの天然芝と人工芝のフィールドを寄付しました。そのほか、寺社への寄付などを含めれば、10回以上、寄付行為を行っています。
─ 社員や大学だけでなく、寺社にも寄付行為も行っているのですね。
和佐見 他にもあります。私は毎年、断食や瞑想、経典の唱え、滝の下での祈りなどを行う修験道のために全国各地の神社仏閣に行きます。比叡山延暦寺などにも行くのですが、最近では長野県佐久市の閼伽流山にある明泉寺というお寺にも行きました。明泉寺は平安時代初頭、慈覚大師によって建立されたと言われています。
その明泉寺にある観音堂が老朽化によって、大分荒れており、建物自体も大きく痛んでしまっていたのです。ご住職によれば、もう自分の手には負えないとおっしゃっていました。それを聞いた私は「そうであるならば、私の方でご支援申し上げましょう。これもご縁ですから」ということで建て直しの費用を私費でご負担申し上げました。
長野県佐久市のお寺にも寄付 ─ 人と人のつながりということですね。ところで、和佐見さんと佐久市とのつながりのもとは何ですか。
和佐見 私にとっては、これも徳積みだと思っています。佐久市とは仕事などでのご縁はありませんでしたが、私にとっては自らを高めるための修験で訪れた場所なのです。近隣での修験と言えば、戸隠や荒船山が有名なのですが、佐久も昔は栄えていたようで、そこまで人が多くなかったこともあり、たまたま選んだ場所だったわけです。
明泉寺の観音堂には千手観音と不動明王を祀っていましたので、「それでは千手観音の石標を1000本建てましょう」と。これから3年ほどかけて建てていく予定です。一方の本堂はかなり建て直しが進んでおり、全体の約5割は済みました。この後に研修所を建設します。このまま放っておけば、誰も手をかけなかったでしょう。
─ そのお寺を訪ねて、そういうご縁ができたのですね。
和佐見 そうです。偶然にも修験を実践させていただいているご縁ができたわけです。少子高齢化で近隣も寂れてしまっていました。こういったところから手をかけていけば街が生き返ることができるはずです。しかも、住職さんも本当に一生懸命に頑張ろうとされている。その姿を見て思いもお聞きし、お手伝いをしようと思いました。
─ お寺や仏像関係の支援は他でもやっているのですか。
和佐見 地元の埼玉県吉川市では昔からいろいろとご支援申し上げています。和佐見家は真言宗なのですが、私の自宅前にあるお寺は浄土真宗。それでも、私の父・冬太郎はそのお寺の住職さんと昔から懇意にしていました。その住職さんが当時の吉川町長選挙に出馬するときも冬太郎が協力したと聞いています。
─ もともと和佐見家にはそういった思想・信条が根付いていたということですね。その意味では両親の存在は大きかったと言えそうですね。
和佐見 そうですね。やはり私の思想に一番の影響を与えたのは両親の教えだったと思います。私は農家の生まれでしたが、いま申し上げたように、父はとにかく人の面倒を見る人でした。若い頃から他人の面倒見の良い人だったので、幼い頃の私から見ても「家のことをやらずに一体何をやっているのだろう?」と思っていました。
それでよくよく聞いてみると、父は家のことはやらずに、人の世話ばかりやっている。ただ、私も成長し、年齢を重ねていくにつれて「ああ、父のやっていたことは、世のため、人のためということだったのだな」と感じるようになりました。
さらに、私の母・すみ子は私が小さかった頃から病弱で、私が小学生のときには入院していました。もともと8人きょうだいで、私はそのうち4人いる男兄弟の末っ子になるのですが、とにかく病弱の母の力になりたいと思っていました。