2024-07-10

藤本加代子・フジモトゆめグループ代表「女性活躍推進のアートをつくり、大阪・関西万博から世界に発信します」

藤本加代子・フジモトゆめグループ代表

「万博を女性活躍推進の起爆剤にしたい─」と語るのはフジモトゆめグループ代表・藤本加代子氏。亡くなったご主人が始めた眼科、塾の経営を引継ぎ、24年前に介護事業をスタート。2016年に大阪商工会議所が制定した大阪サクヤヒメ表彰の第一期生に選ばれ、今回の大阪万博に女性活躍推進のアートプロジェクトを仕掛ける。ご主人の急逝により経営の道に入り、「母性の経営」で社員を幸せにする藤本氏の人生とは─。


女性活躍推進とジェンダーフリーを万博から世界に発信

 ─ 藤本さんは塾やクリニック、福祉施設の経営者もされながら、万博サクヤヒメ会議代表理事として活動されていますね。現在の進行状況を教えてくれませんか。

 藤本 日本のジェンダーギャップ指数は146カ国中125位と低く、恥ずかしい状態です。そこで女性活躍を象徴するアートをつくって、大阪・関西万博から世界に発信したいと思っています。

 大阪商業会議所から大阪を活性化した女性たちに贈られる『サクヤヒメ表彰』の第一期受賞者たちの有志が集まって、女性活躍推進を目指した活動をしているのが一般社団法人万博サクヤヒメ会議です。そこでアーティストの鴻池朋子さんに依頼して、女性活躍を象徴するアートをつくっていただき、万博会場に展示するというプロジェクトを進めています。

 ─ このサクヤヒメのアートはかなり注目を集めそうですか。

 藤本 そうですね。5月23日にフォーラムを開き、そこで記者発表を行いました。アートの力で女性活躍推進を世界に発信したいと。私は、資源のない日本で最後の資源は女性だと思っています。女性の本気の活躍はこれからですね。

 ─ 万博は進行状況の遅れや決行するかどうかについても意見がいろいろと言われていますが、現状はどうですか。

 藤本 実際に4月23日に万博会場の見学に行きましたが、現場にはクレーンが立ち並び、工事を一生懸命進めておられます。大屋根リングも8割ぐらいできていて、上に登ると素晴らしい景観が見渡せました。

 わたしは大阪が大好きですので、大阪が以前のようにもっと活性化してほしいと思っています。1970年の大阪万博のときは日本中の方々が大阪に来られて、本当に盛り上がりました。何回万博に行ったのかと、皆、競争していましたね。

 ─ 日本中が燃えましたね。

 藤本 そうですね。また次の万博でも、大いに盛り上がってほしいですね。今はいろいろいわれていますが、実際に開幕すると、皆さま方もわくわくとして、万博に来てくださると思います。もちろん、海外の方もいらっしゃることでしょう。万博をきっかけに、日本中が元気になることを願っています。


最愛の夫を亡くし経営者の道へ

 ─ 藤本さんのこれまでの人生は波乱万丈でしたね。

 藤本 そうですね。本当に大変でした。専業主婦時代は、友だちから「幸せを絵に描いたら藤本さんになる」とよくいわれるくらい、幸せでした。結婚して19年目に、主人が病気で44歳で亡くなったとき、心にポッカリ大きな穴が空いたようで辛かったですね。一体どうしたらいいかわからなくて、ただただ戸惑っていました。

 ─ ご主人も銀行を辞めて、もう一回医学部を受けなおすという、すごい決断をされたのですね。

 藤本 それは実はわたしがお願いしたのです(笑)。わたしは学生時代の友だちととても仲が良くて、絶対大阪にいる人と結婚して、大阪でみんなで一生楽しく暮らそうねと約束したんです。もちろん、親もそれを望んでいました。

 ところがわたしは銀行員だった主人と大恋愛をしたのです。銀行は転勤が多い職業ですから、困ったなと。

 一番好きな人と結婚して大阪にいたいと思ったときに、「彼が医者になればすべて解決する!」と閃いたのです。そして、彼に医学部に行き直して欲しいと頼んだのです。そうしたら「僕は今の仕事が面白いから」と見事に断られたのです。そのあと、親の勧めでお見合いをしたのですが…。

 ─ やはり気が乗らなかったですか。

 藤本 絶対無理でした。好きな人がいるとダメですね。それで、親もがっかりさせて、友だちとの約束も破ってしまったんです(笑)。ところが、結婚して最初のお誕生日に主人が「加代子、プレゼントをあげる。医学部に行きなおすよ」と言ってくれて(笑)。

 ─ 結婚した直後に。

 藤本 ええ。11月17日が結婚式で、1月2日がお誕生日でした。たぶん彼は結婚する前から決めていたのだと思います。わたしは彼と一緒ならどこへ行ってもいいという決意で結婚しましたので、大変驚きました。

 ─ その決断をしたとき旦那さんは何歳ぐらいですか。

 藤本 26歳です。わたしはもしかしたら主人と別れてお見合い結婚をしていたかもしれないですが、わたしが主人の人生をがらりと変えてしまいました。

 主人は受験勉強をしながら、生活のために塾を開こうと思っていたようです。受験勉強しながら、どのように教えようかな、どんな塾にしようかなと考えながら勉強したと言っていました。医学部に合格したその4月から塾を開いたのです。

 当初生徒は7人で、大阪大学医学部を目指している高校生も来られました。ライバルが灘高に合格して自分は公立トップ高校に決まったけど、大学受験では負けたくないという志の高い生徒ばかりでした。

 ─ ご主人は、大阪大学の医学部でしたね。

 藤本 はい。主人はもともと大阪大学の電子工学部を出ていますので、教養を1年半履修していました。でも、主人は「一度履修したものを再度履修するのは税金の無駄遣いではないか、自分が一日でも早く医者になって世の中の役に立つほうがいいのでは」と、当時大阪大学総長の釜洞醇太郎先生に手紙を書いたのです。釜洞総長は、主人や私と同じ高校の大先輩でした。すると、なんと2年生を飛ばして3年生に進学させていただけたのです。

 ─ そんなことが実際にできたのですね。

 藤本 粋な計らいをしてくださいました。そういう心意気のある方がいらしたのですね。有難かったです。

 ─ ご主人が亡くなられてから塾と眼科の経営を引き受けられて、最初から経営はうまくいきましたか。

 藤本 いえ。だいたいクリニック経営というのは医者を選んで患者様も来られますから、患者数は大幅に減りました。もう毎日「つぶれるだろうな」と怖くて仕方ありませんでした。また、私がトップでは心もとないと、突然、職員が来なくなるのではと心配もしていました。

 ─ 実際、職員は来なくなったんですか。

 藤本 いいえ、ずっと来てくれていました。誰も辞めなかったのです。

 でも自分だったら経営をわかっていない奥さんが急に社長や理事長になったり、そんな職場は不安です。私が従業員だったら辞めるかもしれないと思ったのです。

 ─ そのとき、塾の職員は何人ぐらいでしたか。

 藤本 5カ所に塾がありましたが、講師は全員、京大や阪大の学生で100人以上いました。生徒は1600人ほどでした。

 当時、塾の校舎は公立のトップ高校のそばにありましたから優秀な生徒さんが多かったです。

 でも現在は公立高校より私立高校のレベルが高くなったので、灘高、甲陽学院の生徒が集まる西宮北口校、天王寺校には大阪星光学院、西大和学園、東大寺学園などトップ校の生徒さんたちが通ってくれています。

 ─ 全員医学部希望の生徒ですか。

 藤本 いいえ、違います。医学部志望は多いですが、東大、京大と国公立の医学部合格を目指す生徒対象の塾です。今年の東大合格者は32名で、うち理Ⅲは5名、京大は40名合格で、うち医学部は14名でした。医学部の定員はいずれも100名です。国公立医学部には92名合格しました。国公立の医学部は学部を選ばなければ皆、東大合格の実力があります。

 ─ 塾の経営をする中で、優秀な生徒たちや学生講師と接していて日本の将来はどう感じますか。

 藤本 生徒は優秀で、みんないい子ばかりです。でも、主人がよく言っていました。医学部には最も優秀な学生が行ってはいけない。医学部も大切だが、優秀な学生は、やはり日本の中枢に入り、日本を動かす仕事をするべきだと。

 ─ 現状、官僚は労働環境が悪く優秀な学生は来なくなってしまっていると言われていますね。勤務医も過酷な労働環境だとよくいわれますが、医者の働き方はどう考えればいいでしょうか。

 藤本 難しいですね。でも、医者はできるだけ早く一人前のドクターになりたいと思って、一生懸命働くということが多いようです。過労で命を落とすほどはいけませんが、みんな早くオペが上手になりたい、人の命を預かる仕事だから早く一人前にならねばならない、という使命感があります。ですから、それは必死になって働くんですね。決してお金が欲しいからだけではありません。私の周りにはそういう先生方が多くいらっしゃいます。(次回に続く)

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