2023-05-01

【母の教え】手塚正彦・日本公認会計士協会前会長(会計教育研修機構理事長) 「情熱を内に秘め、信念をぶらさない母の姿がわたしの生き方にもつながって」

手塚正彦・日本公認会計士協会前会長(会計教育研修機構理事長)



 教育者だった母ですが、兄やわたしに「勉強しなさい」と言ったことはほとんどありません。やりたいことはやらせてくれました。おっとりとした長男の兄と違って、わたしは典型的な次男坊。母にはとかく心配をかけました。わたしはスポーツが得意だったのですが、このスポーツを巡っては母の心配の種が尽きることはなかったと思います。

 小学校から野球を始め、小学4年生でレギュラーになりました。そこそこの腕前だったこともあり、本気で野球選手を目指していました。超一流は無理でも一流半ぐらいにはなれるのではないかと(笑)。小学5年生の終わりには地元の少年野球で「オール横浜」のメンバーに選出されました。ところが直後に、右肘を痛めて投げられなくなりました。

 このときは、もらっていたユニフォームをなかなか返しに行けないほどショックでした。長年、どろどろのユニフォームをいつも洗ってくれていた母は、夢を絶たれたわたしのしょんぼりした姿を見て、心を痛めていたと思います。それは子どもながらに感じていました。

 母にかけた心配はこれで終わりではありませんでした。野球を諦めたわたしが6年生で出会ったのがサッカー。こちらもそれなりにできたものですから、ずっとサッカーをやりたいと思って頑張りました。

 すると今度は中学3年生のときに特発性腎出血という病に見舞われたのです。医師からは腎不全や人工透析になる可能性もあると宣告。母も心配して効果のある漢方薬を調べて飲ませてくれたり、食事も減塩のメニューにしてくれたりしました。

 お陰で一度は病気が治ったと思ったのですが、高校2年生の全国大会の予選のときに再発。無理をして大会に出場し続けたのですが、試合に負けてしまった上に、再発した病気は慢性腎炎になっていました。結果として大学生になってもやりたかったサッカーの道は絶たれました。


会計士の使命に通じる生き方

 就職でも母に心配をかけました。大学の卒業を控え、就職活動を始めようと、主治医に就職について相談をすると、「病気は完治していないので、激務は控えなさい」と言われました。そして「何か資格を取ってみたらいかがですか」と言うわけです。それで数ある資格の中で、わたしが目指したのが公認会計士でした。会計士は合格率も低い狭き門。さぞかし母は不安に思ったことでしょう。ただ、「やめなさい」といった後ろ向きの言葉を言ったりはせず、静かに応援してくれました。

 会計士試験に合格した後、中央会計事務所に入所し、病気も完治して順調に会計士人生を歩んでいました。2002年には中央青山監査法人の代表社員にもなることができました。ところが、05年に中央青山が監査を担当していたカネボウで粉飾決算事件が起きました。

 このときわたしは監査法人の理事となり、危機対応のために、週に3日はオフィス近くのホテルに泊まる激務を1年半続けました。しかしながら、努力の甲斐なく07年に法人は解散を余儀なくされました。きっと、母はとても心配していたと思います。

 19年に日本公認会計士協会の会長に就任したことを報告したときも、喜んでくれる一方で、「大丈夫なの?」と、会長の重責を担うわたしの身を案じてくれました。考えてみると、会計士協会の会長に推されたのは、人とフラットにつき合い、レッテルを貼らずに公正な目で人を見る自分の姿勢が認められたからではないかと思いました。そしてそれは誰とも分け隔てなく付き合う母の後ろ姿を見て自然と身についていたような気がします。

 母は私に、「~しなさい」とは言いませんでしたが、嘘をついたり、人に迷惑をかけたりしたときには、厳しく叱りました。母は「イエスは誰にでも言える。ノーと言える男になりなさい」という思いで、わたしたち兄弟を育ててきたそうです。奇しくもわたしは、ダメなことにはっきりとノーと言わなければならない会計士となりました。

 一方で、生き物が好きなわたしに縁日で売られていたヒヨコを買ってきて鳥小屋で飼うことを許してくれたり、犬好きな兄と私のために、こっそり子犬をもらってきてサプライズプレゼントしてくれたりと、子どもたちには惜しみない愛情を注いでくれました。

 情熱を内に秘め、信念をぶらすことなく生きる母を心から尊敬しています。これまで本当にありがとう。そしていつまでも元気でいてください。

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