2023-05-22

【母の教え】堀切功章・キッコーマン会長CEO「母の口癖は『働かざる者食うべからず』。聖書に由来する勤労精神という基本軸を学びました」

堀切功章・キッコーマン会長CEO



 わたしの担当と言えば、薪割り。みりんやしょうゆを入れていた木箱を斧で割り、その薪をくべてお風呂を沸かしたり、かまどでご飯を炊いたりしていました。それ以外にも自宅の裏庭には畑があり、鶏も飼っていたので、トマトやきゅうり、トウモロコシ、イチゴの収穫といった農作業や鶏の餌やりなどを子どもたちで分担してやっていました。

 そんな自宅での手伝いができたのは小学校進学前まで。兄も姉も、そしてわたしも小学校は東京にある慶應義塾幼稚舎に通ったのです。流山の自宅から通うことは無理なので東京に家を借りました。そしてここで〝もう1人の母〟とも言うべき人にお世話になったのです。当時の堀切家のお手伝いさんの1人で、我々の衣食住の面倒を全部見てくれました。

 この熊井ゑいさんは流山市の八百屋の娘さんで、若い頃から堀切家に住み込みで働いてもらっていました。わたしたちのことを実の子どものように育ててくれまして、わたしたちは彼女のことを「ばあや」と呼び、母も「おえいさん」と呼んで全幅の信頼を寄せていました。

 ですから、小学生になると母に会うのは週末だけ。こちらが流山に帰るときもあれば、母が上京してくれるときもありました。先ほど申し上げたように母は学業も優秀だったので、子どもたちに対しての教育にも熱心でした。兄と姉はピアノ、私はバイオリンのレッスンや英語教室にも通いました。

 母も子どもと離れて暮らすのは寂しかったのでしょう。週に何回かは東京に来ていました。母が来るとピアノのレッスンなどを夜中までやるので、兄や姉は大変だったと思います。母が来てくれるのは嬉しかったのですが、寝ている真横での練習でしたので、なかなか眠れませんでした(笑)。

 ところが堀切家に悲劇が襲います。兄が高校1年生のときに急性心不全で急逝してしまったのです。バドミントン部での練習が終わり、整理体操をしているときに倒れてしまった。兄は跡取りとして育てられていた人でしたから、母も期待していたのです。それだけに父も母も大きなショックを受けていました。

 私からすると兄はとても真面目で少し神経質なところもありましたが、すごく勉強家でした。跡取りにふさわしい兄だったので、父の期待も大きく、兄に対してはすごく厳しかった。それを横目で見ていましたので、兄とは絶対にケンカをしませんでした。怒られるのは兄だからです。わたしが悪くても怒られるのは必ず兄だったのです。

 兄の死後、父の厳しさが自分にくるのかなと思ったのですが、それはほんの3カ月ほど。その後はマイペースな生き方を許してくれていました。高校も大学も自由にさせてくれましたし、父から「跡を継げ」と言われたことは一度もありませんでした。

 そんな兄の死は母にも大きな影響を与えました。母は自ら立ち直るためにキリスト教に入信。千葉県の松戸にある教会に通って洗礼を受けました。キリスト教の教えでは、死は神のもとへ祝福されていくという考え方です。ですから、兄は亡くなっても神のもとに召されたということになります。兄は死後洗礼で洗礼名を受けました。

 また、父も肝臓癌で入院をしているときに病院で洗礼を受けました。これも母が希望して父が承諾したからです。ですから、今は親子3人で同じキリスト墓地で眠っているのですが、その墓碑は習字の師範でもあった母が自分で書きました。『私たちは新たな命のうちに歩む』と。

 母は2008年に84歳で亡くなりました。息子を早くに失くし、夫も自分が40代半ばで死去。その時、姉やわたしはまだ学生でしたから、4人の子どもを抱えながら家を守っていくのは大変だったと思います。それだけ非常に芯の強い人だったのだと思います。


Pick up注目の記事

Related関連記事

Ranking人気記事