2023-12-14

【追悼】生田正治さんを偲ぶ

生田正治氏

信念の人

 日本郵政公社の初代総裁を務めた生田正治さん(1935年=昭和10年)の人生を見ると、改革、変革のそれであった。

 本拠・商船三井は日本の高度成長期の1960年代から海運再編の先頭を切って生き残りを模索してきた会社。生田さんは94年(平成6年)に同社社長に就任。5年後の99年、ナビックスラインとの合併を決断した。

 生田さんは57年慶大経済学部卒業後、旧三井船舶に入社するが、同社は大阪商船と合併し、商船三井として誕生。当時、三井と住友の旧財閥系が統合することに日本の産業界は驚かされた。しかし、世界の海を相手にグローバル経営を展開してきた海運関係者にとっては、やり遂げねばならない再編劇であった。

 生田さんは海外勤務も経験し、多国籍の視点を持たなければ経営が成り立たない海運業界の中で、生田さんは進取の精神と合理主義で対応してきた。そして、海運業界の枠に留まらず、財界レベルでも論客として鳴らし、経済同友会副代表幹事も務めた。


社長就任時の「覚悟」

 生田さんを社長に指名したのは当時の社長・轉法輪奏氏だった。しかし、生田氏は固辞。57歳と若かったが、そのとき生田さんは肝臓がんの手術を受けており、「会社に迷惑はかけられない」として固辞したのだ。

 だが、轉法輪氏も一度決めたら引かない人。生田さんの主治医や関係した医師らに自ら連絡をとり、「君の健康には問題はないことを確認してある」と本人に通知。生田さんも「そこまで言われるのなら」と社長を引き受けたという経緯がある。


郵政公社初代総裁に

 バブル経済が崩壊し、金融危機が続く2000年代初め、生田さんは日本の改革を進める小泉純一郎首相に要請されて総裁に就任。このときも生田さんは固辞する。

 1871年(明治4年)、前島密の手により日本の郵便事業はスタート。当時はそれから132年が経っていた。明治時代の近代化の中で郵便事業の果たしてきた役割は大きく、日本の社会の中に浸透し、独特の〝生態系〟を形成。いわゆる郵政三事業(郵便貯金、簡易保険、郵便)の展開の中で、既得権益化している面が強かった。郵政改革は経済的な側面ではなく、政治問題でもあり、社会問題でもあった。

 小泉首相は郵政改革を自らの最大課題にしており、生田さんを説得し続け、要請を受け入れた。

 その生田さんも北は北海道・稚内から南は九州・沖縄まで、全国隅々に足を運び、職員との対話を徹底。「最後は役員、職員の多くが志を同じくして行動してくれた」と感謝していた。強さと優しさを併せ持つリーダーだった。 合掌

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