2024-07-09

古川弘成・阪和興業相談役 × 中川洋一・阪和興業社長「お客様のために汗をかき、足で稼ぐ。そして人を育てる。このDNAをこれからも引き継いでいく」

左から、古川弘成・和興業相談役、中川洋一・阪和興業社長

「『阪和興業はいらない』と言われれば、すぐに変えられてしまうという危機感があった」─阪和興業前会長で相談役の古川弘成氏はこう語る。鉄鋼商社・阪和興業は機動力のある営業で定評がある。そこには創業者のDNAに加え、それを引き継ぎ発展させた、古川氏の先を見据えた打ち手があった。今、それを継承しているのが社長の中川洋一氏。中川氏は「日々改革」と話す。財閥系でもメーカー系でもなく、独立系で戦後を生き抜いてきた阪和興業の戦略と、その土台にある経営哲学を探る。


キーワードは「そこか」 即納・小口・加工の戦略で

 ─ 環境激変期ですが、中川さんは社長就任から2年間、様々な改革を行ってきましたね。

 中川 改革は、古川(弘成・相談役)の時から常にやっていることです。日々改革ですから、改めて何かをやったというよりは毎日変化の中にあります。

 ただ、環境問題や日本の少子化問題など、社会の大きな流れには変わらない部分があります。それに対して種を蒔いてきたのが古川時代で、出た芽に水をやり、育てて花を咲かせ、さらに次の種を蒔くのが私たちの役目になります。

 ─ 古川さんはどういう時代認識で改革を進めましたか。

 古川 当時、会社の中で相当議論をしました。その前提は日本の鉄鋼業の成長が止まり、縮小していくというものでした。今、実際その通りの動きになっています。人口減少による国内鉄鋼需要の減少と中国の台頭です。

 当社は商社の中でも中国関連のウエイトが高く、大手鉄鋼メーカーの宝鋼集団ともステンレス事業を手掛けています。

 今や、中国の鉄鋼業は量で日本を凌駕しました。特に汎用品については、その傾向が顕著です。日本は高級品に強みがあることは確かですが、汎用品があってこその高級品です。その前提でどう手を打つかを常に考えてきました。そうして議論をし、手を打って、中川(洋一・社長)に引き継ぎました。

 ─ 日本国内ではどのように事業を進めてきましたか。

 古川 国内では中堅・中小企業の顧客層を切り開くことで、事業基盤の強化、市場拡大を目指しました。その時のフレーズが「そ(即納)・こ(小口)・か(加工)」戦略です。つまり、お客様のかゆいところに手が届く商社になろうということです。

 そのための機能を果たせる会社のM&A(企業の合併・買収)を行い、連結子会社も増やしてきたのです。国内は「相対的」に伸びようという考えでした。言葉ではかっこいいですが、つまりは他社のシェアを奪うということです。

 ─ 競争は熾烈だった?

 古川 撤退気味の同業者もありましたから、そうした状況も察知しながら手を打ってきました。結果、独立系商社で残っているのは、当社と岡谷鋼機さんくらいでしょうか。岡谷鋼機さんは300年以上の歴史がある会社ですから、戦後生まれの独立系は実質当社しかいないかもしれません。

 ─ 厳しい環境下を生き抜いてきたということですね。

 中川 まさに汗水を流して地道に取り組み、事業に付加価値を付けていった結果だと思っています。これは当社のDNAです。右から左に商品を流すだけの薄口銭の大量商いは我々でなくてもできます。我々はそうした仕事ではなく、事業に付加価値を付けながら深掘りをしていったという歴史があります。

 古川 当社は財閥系でもメーカー系でもなく戦後を生き抜いてきた、ある意味では成り上がりの商社です。系列がない分、中小の取引、汗を流す取引に力を入れ、足で稼いできました。

 ─ 創業者・北二郎さんの時代から、「人」の力で稼ぐことを意識してきた?

 古川 創業者の北二郎、名出良作兄弟は人を大事にし、教育に力を入れてきました。例えば、設立10周年のまだ会社が大きくない時期に「阪和育英会」を設立しています。

 向学心旺盛で優秀な学生が経済的な理由で進学を断念することがないよう、奨学金を出すことで就学を助け、社会に有為な人材を育成しようとの主旨でした。今も毎年、給付型の国内奨学金と海外留学奨学金を出しています。

 人を大事にして育てていこうというのが北二郎の教え、そして汗を流す商売をすべきというのが、弟である名出良作の哲学でした。

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