2022-07-19

円覚寺・横田南嶺管長が語る「『死』をいかに受け入れるか。これはいかに共に生きるかということにつながる」

横田南嶺・円覚寺管長



医療と仏教がつながる時代に


 ─ かなり早い段階で人が死ぬことについての記憶が残っているんですね。

 横田 特に火葬場に行ったことを鮮明に覚えています。今、火葬場は自動ドアが開くような形で綺麗ですが、身体を焼くというリアリティがありません。当時はそんな綺麗なものではなく、まさに「焼き場」でした。

 我々で棺を入れて、パタンと蓋を閉めました。じきに煙が出るわけですが、それを見ながら母が「おじいさんは煙になって空に行くんだよ」と言うのです。私は「そうか、空に行くのか」と思ったものです。

 その年の夏、初盆が来たわけですが、その時のことが人生を決定付けました。熊野川ではご先祖の御霊を流す「精霊流し」が行われています。当時は特に一家の主が亡くなると船をつくり、それに提灯や灯籠を飾って、向こうの世界に行くまでのお弁当を包んで川に流すという盛大なものだったんです。

 お坊さんにも来てもらって、みんなで手を合わせて船を見送るわけですが、この時に母が「おじいさんは、この船に乗ってあちらの世界に帰って行くんですよ」と言ったんです。そういうものかと思って手を合わせていたのですが、船が船大工ではなく素人が作ったものでしたから目の前で沈んでしまったんです。

 ─ この時にどう思ったんですか。

 横田 大人は嘘をつくんだなと思いましたね。あてにならないと。おじいさんはどこに行ったかわからないじゃないかというのが、私の一番の疑問でした。

 ─ もし船が自然に流れていたら抱かなかった疑問ですね。

 横田 そうです。そうしたら素直に育ったと思います(笑)。私はそれ以降、「死ぬ」ということを考えるようになりました。

 その後、小学3、4年生の時に同級生が白血病で亡くなったんです。それまで、死ぬということは考えていましたが、だいぶ先のことで今日明日の話ではないと思っていました。遠い先の話だと思っていたのが、同級生が亡くなったことで、ひょっとしたら、自分も死ぬ可能性があるということを身近に感じるようになったんです。

 学校ではそういうことは教えてくれませんし、大人に聞いても相手にしてもらえない。そこで自分なりに図書館に行って本を読んで調べたり、お寺やキリスト教の教会に話を聞きに行くなど、いろいろ試行しました。

 その中の一つに禅宗のお寺がありました。そこで坐禅をしたのが10歳の時です。この時に「何かが違う」と思ったんです。ひょっとしたら、禅を学べば死の問題が解決するのではないかと感じました。

 ─ 早熟の少年ですね。自分で死、そして生きることを考えていたわけですね。

 横田 ずっと考えていました。そんなことを考える小学生なんて変わり者ですよね(笑)。死ぬことが一番の問題ですから、仲間と遊ぶわけでもありませんでした。私は45歳で円覚寺の管長になりましたが、それまでは全くの変わり者で、人から相手にされてきませんでした。

 ただ、祖父が亡くなってから50年、私は「日本肺癌学会」で「死」について講演をして欲しいというご依頼を受けました。これは感慨無量でした。祖父が肺がんで亡くなって以降、死について考えてきたわけですから。一つのことを50年やっていると、こういうこともあるのだなと思いましたね。その2年後には「世界肺癌学会」からもお声がかかりました。

 他にも、鎌田實さんが名誉院長を務める諏訪中央病院では毎年、「死」について話をさせてもらっています。

 ─ 医療と仏教がつながる時代になってきた?

 横田 そうかもしれません。なぜ、病院が「死」について話をして欲しいというご依頼をしてくるかというと、例えば90歳のおじいさんがご自宅で具合が悪くなって、救急車で駆けつけて心臓が止まっていたらマッサージをしなければなりません。肋骨が折れても、心臓が動かなければショックを与えなければならないのです。

 現場の医師としては内心、このまま安らかに逝かせてあげた方がいいのでは? と思うこともあるそうですが、ご家族が意思を示さない限り、やり続けなければならないわけです。こうした現実の中で、患者さんがご家族には元気なうちに死について考えて欲しいという主旨でした。

 ただ、諏訪中央病院は鎌田さんの教育が行き届いているために、こうした話ができますが、一般的に病院の中では死の話はタブーです。今後、私たちも含め、皆さんとともに死をどう受け入れるかを考えることが、これからの時代の大きな課題だと思っています。

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