2022-10-13

【医療界にも非営利法人のホールディングカンパニー制が登場】山形県・酒田市病院機構・栗谷義樹理事長に直撃!

栗谷義樹・地方独立行政法人山形県・ 酒田市病院機構理事長



病院の建て替えから合併へ
 ─ 自分たちの地域での医療連携を創設するためにと考えたことが国の改革の方向性とも重なったのですね。酒田市立酒田病院も赤字だったのですか。

 栗谷 ええ。私が病院に勤めて5年経ったときに山形県立日本海病院ができました。近隣に規模の大きな県立病院ができたので医師もたくさんいました。県立病院ができれば市立病院はもういらなくなるだろうと言われました。実際に、患者さんも県立病院に通う人が増えました。

 当時、私は外科だったのですが、院長先生も外科で定年まであと5年ほど。院長の定年を機に、また別の病院に移ることになるのかなと漠然とした将来構想を描いていた最中、院長が定年になる前年に、院長を引き受けて欲しいというお達しを市から受けました。その頃、副院長先生が2人いたので驚きました。

 ─ そういう現状に違和感を感じたと。

 栗谷 はい。院長として財務状況を見てみると、全く成り立たない医療を提供している先生がいたり、患者さんの数はどんどん少なくなる。資金繰りがいつまで持つか調べてみたら、向こう2年でダメになると。かなり大きな資金不足に陥っていたのです。「ほぼ終わりだな」と思っていた最中でも何とか資金繰りをうまくつなげられました。

 ─ どうしてそうなったのですか?

 栗谷 先ほどの副院長先生が自分では必ずしも満足していなかったかもしれない医療をすることによって、お金を貯めていてくれたのです。そのお陰で何とか凌ぐことができました。

 このときはお二人にとても感謝しました。苦しい時期をそれで凌ぎ、3年目くらいから黒字転換を果たしたのです。病院も決して新しい建物ではなかったので、償還もそんなに多くありませんでした。それで現金が徐々に溜まっていったのです。

 ─ 足元を固めることができたということですね。

 栗谷 そうです。それで医師も何とか私と波長の合う人が集まってくるようになり、それで盛り返しました。一方で職員は古い病院を建て替えれば、県立病院に競争で勝てると思っていたのです。しかし、当時の酒田市長が絶対に首を縦に振らないと分かっていました。

 そこで立ち上げたのが「病院改築外部委員会」です。総務省自治税制局準公営企業室の室長からアドバイスを受けたのです。

 そして外部委員会を立ち上げ、委員長には私と同じような考え方を持ってくれている同志になっていただきたい。それでネットなどで省庁の委員会の議事録を片っ端から読み、ついに私と同じ意見を持っている方を知った。それが公認会計士だった長隆先生(監査法人長隆事務所代表)です。長さんの事務所にお伺いし、直接お願いしました。

 ─ その長さんとの出会いが病院再編につながったと。

 栗谷 はい。長さんには実際に病院にもお越しいただいたのですが、水道管のパイプがむき出しになっていて、病院にも改築するお金がないと。そして長先生から提案された県立病院との統合でした。そして08年に山形県立日本海病院と酒田市立酒田病院が統合再編し、日本海総合病院が設立されたのです。

 ─ 栗谷さんの危機感は若い頃からあったのですか。

 栗谷 ええ。ただ、いつ潰れるか分からない病院の院長になったときは大きかったです。自分で想像するのと実際に院長になってこれから先どうなってしまうのかと実感するのとでは全然違いますからね。それに、職員の生活もあります。

 今まで公務員だったけれども、統合して独立行政法人になれば身分が変わるわけです。看護師さんも含めて放射線技師や麻酔医などの職員からは厳しい視線を浴びせられましたね。中でも1日新患10人くらいしか来なかった日は、もう終わりだと皆が思ってしまいましたからね。

 ─ 今は何人ですか。

 栗谷 130人程度です。それが当時は僅か10人。「うちの病院はどうなっちゃうんだろう?」と皆が思うのも当然です。ただ私も最初は手の付けようがないと思っていました。どうしたらいいんだと。それでもまずは何かをやらなければならない。そこで私は、ともかく病院の情報を全部職員の中で共有するようにしました。

 そのために病院の中に無線LAN回線を敷いたのです。ただ、回線を敷くお金がなかったので、医師会に補助金をもらうため、自分で企画書を書いて3年間で2000万円の補助金をもらいました。これによって病院内のどこに行けば、そのデータが見られるかが全部分かるようにしたのです。患者動態も毎日分かるようになりました。どこの診療科に行けば数値だけですが、全部分かるようにしたのです。

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