2021-10-05

【岸田・新総理誕生】元通産事務次官が語る「日本再生の道筋」

福川伸次・元通産事務次官(東洋大学総長)


低迷の30年の要因

 ─ 具体的には、どんな誤りがあったと思いますか?

 福川 政策判断が遅かったということです。まずバブル経済に対する対処が遅れた。引締めに転ずると、アメリカから「また日本は黒字を貯めようとしている」と言われるのを恐れた。バブルになったときも〝締める時期〟を失してしまった。


 そして、バブルが崩壊し、景気が落ち込み銀行が潰れ、引き締めを緩和して、再建しなくてはいけないときも政府の景気回復策が遅れた。景気回復策を打つべきときも、産業拡大政策とアメリカに言われることを恐れ慎重になってしまった。


 つまり、締めるのも、回復させるのも遅れたわけです。


 その結果、財政が悪化し、金融も混乱した。さらに、バブルが崩壊したら次から次へと問題が出てくる。そうなると、イノベーションに対する政策も遅れてしまった。


 平成の30年間、日本のイノベーション力、特にDX(デジタルトランスフォーメーション)やAI(人工知能)といった分野に日本は完全に後れを取ってしまった。


 アメリカは日本産業に苦しめられていた80年代、懸命にイノベーションに取り組んでいました。それが今のGAFAの躍進につながっています。中国も90年代に教育の仕組みを変えて、イノベーションに力を入れ始め、産業力を伸ばしていった。


 ─ 90年代、中国の教育はどう変わったと認識しますか?


 福川 わたしが個人的に理解したことですが、中国は80年代までは共産党がすべて支配していました。それが90年代に入ると、大学を強くしようと、教育者の意見を尊重するようになったと思っています。それで、アメリカに留学生を多く送り出した。教育や研究を通じたアメリカとの交流も拡大しました。


 一方、アメリカは85年に「ヤングレポート」、87年に「ニューヤングレポート」を出しました。内容は、日本を乗り越えて、情報産業に情報産業を軸に、いかにアメリカ経済を強くするかというものです。


 そのとき、アメリカが考えたことは人材が一番大事ということで、アジアの優秀な人材を留学生として受け入れていきました。わたしの記憶に間違いなければ、91年はアメリカで学位を取る人の52%がアジア人を中心とした非アメリカ人でした。つまり、アメリカもアジア人の知恵に頼ろうとしたのです。そして中国もそれにうまく乗った。


 アメリカで勉強して中国に帰国した留学生たちが、中国の産業を強くしていった。


 日本は予算を削ったこともありますが、就職指向が強く、海外に留学する学生が減りました、先端的な研究に後れを取るようになったわけです。


 今、日本人がノーベル賞を獲っていますが、あれは80年代の研究が中心です。


 AIやデジタルで後れを取り、企業経営者の多くもどうやって人を伸ばすかよりも在任中の企業存続に関心がありました。内部留保を増やし、新しい投資はしない。


 こうしたことが平成の停滞につながり、段々と経済が小さくなっていきました。そして、日本が世界のGDPに占める割合はピークの16%から6%前後まで低下しました。


 日本の停滞が鮮明ですが、アメリカは世界のGDPの23%前後を維持し続けています。これは、アメリカがそれだけ将来に向けた技術開発力を重要視しているということです。


 ─ 米中など海外諸国が新領域開拓に挑戦していたのに、日本はそれを怠ったと。


 福川 そうです。わたしが通産省にいた最後の頃、これからの産業政策を考える柱は「グローバル性/国際性」「革新性/技術革新」「文化性/高価値」が重要であり、それをどう組み合わせて新しい産業を育てていくかを考えていました。それがバブル崩壊で、うやむやになってしまった。


 企業経営者も在任時の企業の存続を考え従業員は新しいことを勉強するよりもポストを守るの姿勢に入ってしまった。それが停滞の原因だと思います。


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