2022-01-15

国境なき時代の企業の舵取り─不確実性の時代をどう生き抜くか?【ファーストリテイリング・柳井正】の国も企業も危機感が無ければ変革できない

ファーストリテイリング会長兼社長 柳井正



宇部を出発点に…

「ピンチはチャンス」─。
 企業経営には、それこそ試練や危機が付きまとう。柳井氏は35歳で父親の経営する衣料品会社「小郡商事(現ファーストリテイリング)」を受け継いだ。
その後、失敗や試練の中で苦闘しながら、壁を乗り越えて成長してきた。

 発祥の地である山口県宇部市は明治以後の殖産興業で炭鉱都市として発展したが、1960年前後、昭和30年代からのエネルギー革命で石炭産業が没落。
 石炭から化学へと転身した宇部興産などを中心に、周防灘の沿岸部に工業地帯を形成しているが、街の商店街もシャッター通りと化した所も少なくない。人口は約16万人規模にとどまる。

 家業の衣料品店を受け継いだ時、柳井氏は、「日本で断トツのアパレル1位になる」と目標を立てた。そして、心密かに「世界1を目指す」と、グローバル市場で勝負できる会社に育て上げるという思いを持った。
 目標に向かって邁進。店頭に立っての販売から経理、そして店内の清掃もこなし、閉店後は夜汽車に乗って、大阪まで商品の仕入れに行った。
 目標を実現しようと、朝早くから夜遅くまで自らに厳しく日課を科し、働きに働いた。その分、社員にも厳しくなったのであろうか、7人いた社員のうち、1人を除いて皆辞めてしまった。

 その1人は、柳井氏のモノの考え方、経営思想のよき理解者でもあり、同志でもあった。そして、同社がファーストリテイリングとして一大発展していく時の伴走者でもあった。
 宇部という街の市場は小さいから、成長するには、「外へ外へ」と、より大きな市場へ向かった。

最後まで諦めずに試練の後に成果が

 そして他店にはないようなユニークな製品を売ろうと、ブランド名は『ユニクロ』とし、広島に1号店を出店(1984)。
 お客の反応は非常に良かったが、この時は「まだ商品的には満足できなかった」と言う。なぜ満足できなかったのか?
 お客はユニクロの買い物袋を持って店を出るのだが、店外でユニクロと書かれた袋を捨てていたという。

「これはブランドとして評価されていないということ」と柳井氏はその光景を見て、逆に燃え上がった。
 お客に信頼してもらうようにするには、商品の質をぐっと上げてくために、SPA(Specialitystore retailer of Private labelApparel、製造小売業)になろうと決意。

 単に商品を仕入して販売するという、『右から左に商品を流す』商売ではお客に信用・信頼されないと悟ったのである。
 コスト的に、国内での製造は難しく、柳井氏は香港へ向かう。こうして海外での生産ルートを構築し、商品の質向上を図り、ユニクロブランドの評価を高めていった。

 しかし、物事はそう順風満帆とはいかない。1990年代には初の都心型店として、大阪・西心斎橋地区のアメリカ村にも出店したが、この時は「大失敗だった」と柳井氏は振り返る。
 この間、商品の質を高めるには、「素材が大事」と素材開発にはこだわり続けた。
 合繊メーカーである化学会社の東レと提携しての素材開発では、ダメ出しを繰り返したため、東レの開発陣の間では、「取引を止めよう」との声も強まった。
 両者が決裂寸前まで素材の改良を繰り返しやれたのは、東レの総帥・前田勝之助氏(元社長・会長、故人)と柳井氏の双方のトップ同士の厚い絆(きずな)があったからだ。

「前田さんは最後まで諦めない人でした。本当にお世話になりました」と柳井氏は述懐。
 こうして、厳寒期にも暖かい素材『ヒートテック』を開発。
1998年の東京・原宿店の出店時は、『フリース』ブームを巻き起こし、大成功を納めている。『フリース』はポリエステルの一種であるPETを材料に、柔らかい起毛仕上げにした繊維素材。保温性が良く、洗濯も簡単で速乾性があると評判を呼んだ。

 原宿出店の98年は、ちょうど日本がデフレに入った年。90年代初めにバブル経済が崩壊し、経済全体が停滞期にあり、ユニクロの出現に消費者は関心を寄せ始めた。



本誌主幹 村田博文

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