2022-10-24

【 日中国交正常化50年】隣国・中国とどう向き合っていくべきか? 答える人:西原春夫・元早稲田大学総長

 ─ 戦時中の生活はやはり大変なものだったのですね。

 西原 例えば、戦時中の1944年の後半、私は中学校の生徒でありながら消防署に駆り出されたことがありました。16歳です。当時住んでいた東京都武蔵野市には日本最大の飛行機工場である中島飛行機の工場があり、6月にサイパン、グアムが陥落した後、米軍の空襲は必至と見られたのですが、消防署員の大部分が兵隊に取られて、お年寄りしか残っていないという状態のようでした。

 私が通っていた学校は中島飛行機工場の近くにあったので、武蔵野市の消防署から足の速いスポーツマンを20人くらい出して欲しいという要請があったらしいのです。どういう基準で選んだのかは分かりませんが、私も水泳選手でしたので、その年の夏休みには消防署へ行って訓練を受けました。消防車に乗って火を消す正規の訓練をしっかり受けたのです。

 11月に入ってからB29の偵察が始まり、11月24日にB29の大編隊による最初の本格的な空襲がありました。警戒警報が鳴ると消防署に駆けつけて待機し、出動命令が下ると消防車に乗って、それこそ爆弾や焼夷弾が落ちるのをかいくぐって火災現場に向かったのです。

 ─ 東京大空襲は45年3月10日。それ以前に空襲の経験をしたということですね。

 西原 はい。米軍は都市よりも先に軍需工場を狙ったのです。消防署の隣には防空壕があり、私はいつもその出入り口あたりで、小学校以来の親しい友達と一緒に「ああ、B29が来た」と言って眺めていました。その友達とは配属された消防車が違いました。

 ある空襲の日、私の消防車に先に出動命令が下ったので、私はその友達に「お先に行くよ」と言って消防車に向かって走って行ったのです。まさにその時、爆弾の落下音が鳴り響きました。爆弾の落ちる音は電車が走行中のガードの下で聞こえるような音でした。ガァァ! ダァァ! という轟音と共に、砂ボコりがブワッと舞い上がったので、すぐさま私は消防車の下に潜り込んで避難。それでも消防車には泥がザアーとかぶさってきました。

 私はそのまま消防車に乗って出動し、各所で消火活動を行った後に無事、署へ帰ったのですが、驚いたのは、さっきの爆弾は防空壕の隣の自転車置き場に落下し、何と私共のいた防空壕の出入り口は完全に埋まってしまったのです。しかも私とともに出入り口にいた私の友達は土に埋もれ、幸運にも一命は取り留めましたが、大腿骨骨折の大怪我をしたというのです。

 ─ まさに生死を分ける体験をしたことになりますね。

 西原 本当にその通りです。もし私の消防車への出動命令が30秒遅れていたら、私は瓦礫に埋もれて死んでいたかもしれません。またはもし爆弾の落下地点が10㍍ずれていたら、消防自動車に向かって走っていた私は爆弾の直撃を受けていたかもしれません。

 ─ 亡くなった人もいた?

 西原 いいえ。幸い1人の死者も出ませんでした。友達が骨折しただけで済んだのです。1人も死ななかった。幸いその友達も骨折だけで済んだとも言える。それでも爆撃の威力をまざまざと感じました。

 現場を見ると、爆弾の落ちた自転車置き場にはスリバチ型の大穴があき、そこにあった自転車は全て吹き飛んでいました。自転車で消防署に来ていた友達の自転車がどこを探してもないと言うのです。そこでみんなで探し回るとありました。

 自転車は爆風で飛ばされて、何と20㍍先の家の屋根の上に乗っかっていたのです。ハンドルも直角に曲がっていました。私は戦場には行っていませんが、こういった戦争体験は直接しているのです。

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