2023-05-09

【産業競争力を高める!】三井不動産新社長・植田俊の「需要創造を図る産業デベロッパーとして」

植田俊・三井不動産社長




不動産業の本質とは

 植田氏が大学卒業時(1983年=昭和58年)に不動産業を選んだのはどのような理由、動機だったのか。

「デベロッパーとしての活力。今はハードだけでなくてソフトも含めて、産業デベロッパーですが、大きいことがしたいと、そういう動機です」

 入社した1983年は東京ディズニーランドがオープンした年。運営主体のオリエンタルランドには三井不動産も大株主として関わっていた。

 植田氏は入社してすぐ、横浜事務所に配属。「関内に事務所があって、マンション用地の仕入れをする男性4人だけの小さな事務所でした」と言うが、数年後には100数十人の大所帯に成長する。

「スタートアップと同じような感覚で、僕は最初の社会人人生を踏み出した」と本人は述懐。

 入社3年目で横浜市神奈川区片倉の農家と粘り強く交渉。

「相手は百戦錬磨の方。自分が持てる全ての能力を使って交渉しました。最後、首を縦に振ってもらった瞬間は今でも忘れられません」

 小さな事務所が大きく成長していくプロセスを体験したが、難渋な〝場〟もあった。バブル絶頂期の1989年(平成元年)秋、リゾート事業部に異動。当時は〝リゾートホテル法〟が制定されたばかり。

「悪法とも言われましたが、規制緩和してゴルフ場なども作りやすくなりました」ということで、富士の裾野の静岡・小山町で70万坪(約230ヘクタール)もの地上げに当たった。

 相手にする地主は800人、合計2000筆をまとめるという課題を与えられた。最初は張り切ったが、3年目位になると、やっても、やっても先に進まない。「もう止めましょう」とかなり勇気を持って上司に進言したつもりだったが、取り合ってもらえなかった。

 そうこうしているうち、1992年(平成4年)三井不動産ファイナンスに出向となる。富士山麓の地上げ問題で楯突いて、「その時は飛ばされたと思った」と植田氏。

 そしてバブルの崩壊。子会社に多額の不良債権が発生、その回収を図る仕事が回ってきた。

「不良債権処理は6年半と、これはなかなか辛い仕事でした」

 回収できるものは回収したが、その頃は〝半値・8掛け・2割引き〟の世界。残滓がいっぱい残った状態で、三井不動産本体が最後は尻拭いして、約3000億円の赤字決算を出した(1998年度)。

 このあと三井不動産投資顧問に出向といった具合に、様々な仕事を経験。

 1990年代初めのバブル崩壊から30年余。この間、不動産業界は『不動産の証券化』を取り入れ、事業の質を変えていく。同社では前会長の岩沙弘道氏が社長在任中(1998年から2011年まで)に不動産の証券化を推進。

 不動産と金融の融合で、不動産開発の資金調達に際し、間接金融(銀行からの借り入れ)に頼らず、直接金融で、自ら市場で資金調達できる方途を開発。REIT(リート、不動産投資信託)の市場創設などに動いた。

 そして、岩沙氏のあとを受けて社長に就任した菰田正信氏(社長在任2011―2023)は土地などの資産を『保有するから活用するへ』の考えの下、〝アズ・ア・サービス〟ということで、『サービス産業としての不動産業』を推進。『東京ミッドタウン』などの街づくりを進めた。

 苦境の中から立ち上がる─。色々体験してきて、感ずることとは何か?

「供給するサイドとして、供給するだけではなくて、需要を創造していくことに尽きます」

 植田氏が続ける。

「ある時、東京・練馬の物件を買われた方がいて、非常に高買いされているんですね。なぜ、そんなに高く買ったのと、仲介した業者さんに聞いてもらったんです。すると、買ったアニメ会社のトップが『練馬はアニメの聖地なんです』と答えられたと。その会社からすると、もうそこにいないといい仕事ができないと。値段じゃないんですというお話でした」

 聖地をつくる─。そこにいないといけないという思いが、事業の付加価値を高める。「産業デベロッパーの使命と役割」を深堀りする時である。

本誌主幹 村田博文

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